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【前編】春のアラカルテ

 三月マーチのある日のことだった。

 小説を書くとき、絶対に、絶対に、このような書き出しで始めてはならない。これよりもひどい書き出しなどないだろう。想像をかきたてられるものもなし、盛り上がりに欠けるうえ、無味乾燥な、風だけを描写するような単純なものになってしまう可能性が高い。だがこの場合は許される。と言うのも次の段落が、本来であれば語り手を就任させなければならないのに、前振りなしでは盛りすぎかつ唐突すぎて、なんとも読者に押しつけがましい文章になっているのだ。

 サラはメニュー表に突っ伏して泣いていた。

 ニューヨーカーの若い女性がメニュー表に涙をこぼす情景など、考えられるだろうか!

 その理由として、ロブスターが品切れだとか、大斎節レントの間はアイスクリームを断つと決めたばかりだったとか、たまねぎを注文したのだとか、ハケットの昼公演マチネを見てきたばかりだとか、読者諸君は予想するかもしれない。でもすべて不正解なので、先に進めさせていただこう。

 牡蛎の殻のように世界は私の剣でこじ開けるものだ、と宣った某氏の発言は、世間から過剰に高く評価されている。牡蛎の殻を剣で開けるのは、さほど難しくない。
 だが、地球という二枚貝をタイプライターで開けようとした者がいることをご存じだろうか? ずらっと並ぶ、十以上の生の二枚貝をタイプライターで開けてみせるなど、可能なのだろうか?

 サラはこの不向きな武器でなんとか世界という名の貝をこじ開け、隙間から冷たくねっとりとした中身をちょっぴり覗けるようになったところだ。
 商業大学が量産する新人の速記術修了生と同程度の速記しか、サラにはできなかった。そんなわけで、速記では即戦力になれないので、オフィスで華々しく働くという道はなかった。フリーランスのタイピストとして、半端な入力作業を探し回っているのだった。

 世界を相手取った闘いのなかで、サラが獲得した素晴らしく最上の戦果は、シューレンベルグ・ホーム・レストランとの契約だ。
 レストランは、サラが間借りしている古い赤煉瓦の家の隣にあった。名前からしてドイツ人が営んでいるのだろう。ある夜、シューレンベルグで40セントの会食ターブル・ドット五品コース(ボール投げゲームで投げるときと同じぐらいのテンポで、次々と配膳される)の夕食を終えたサラは、メニュー表を持ち帰った。ほとんど読めない字で手書きされているものだから、英語でもドイツ語でもない文章になっていて、気をつけないと爪楊枝とライスプディングに始まりスープと今週の一日で終わるコースを注文することになってしまう。

 翌日、サラはきれいにタイプしたメニュー表をシューレンベルグに持って行った。
 「前菜オードブル」に始まり「コートや傘のお忘れ物には責任を負いかねます」に終わる、セクションごとに美味しそうな料理名がタイプされているメニュー表だ。

 移民のシューレンベルグは、これでニューヨークの市民権を得たようなものだ。
 サラが店を出る前に、シューレンベルグは彼女の提案に快く同意した。
 レストラン内の全二十一のテーブル分、手書きのメニュー表をサラが清書する――毎日の夜のメニューだけでなく、朝と昼のメニューも、内容に変更があったり汚れがあったりしたらタイプしなおす。

 その報酬に、シューレンベルグは毎日三食、サラの下宿先へウェイター(なるべく忠実な人間)に食事を届けさせ、午後には、客が翌日なにを食べる運命になるのか、鉛筆で書いたドラフトを渡す。

 双方とも、満足のいく内容だった。
 シューレンベルグの客はようやく、謎のメニューであることも多々あるにせよ、少なくともどういう名の料理を口にしているのか、わかるようになった。
 そしてサラは寒く暗い冬の間も食事にありつけて、なによりも助かった。

 やがて暦は嘘を吐き、春が来たと触れこむ。
 春は、来るときには来るものだ。
 一月に降って凍りついた雪がまだ、街中の道に鉱石のように貼りついている。
 手回しオルガンはまだ、「夏が恋しい」を十二月らしい熱量と気もちのこもった音色で流している。
 イースターのドレスを買うのに、三十日後払いの手形を準備する男性が出てきた。
 建物の管理人たちは、セントラルヒーティングを切った。
 このような出来事から、街はまだ冬にしがみついているのがわかるだろう。

 ある日の午後、サラは「暖房完備、きれいにお住まいで、立地良好、内覧歓迎」だったはずの、エレガントなワンルームで凍えていた。シューレンベルグのメニュー表以外の仕事がなかった。軋む柳材のロッキングチェアにすわって、窓の外を眺めていた。
 カレンダーはサラにわめきつづけていた。
「春が来たよ、サラ。春が来たんだってば。ほら見てよ、私の数字フィギュアのとおり。サラも春らしい、きれいな装いフィギュアをしているじゃない――なにをそんなに淋しそうに、窓の外を眺めているの?」

 サラの部屋は、建物の一番奥にあった。窓からは、隣の道にある箱を製造する工場の、窓のない赤煉瓦の壁が見える。だが、サラにとってその壁は透明な水晶だった。桜や楡が木陰をつくり、ラズベリーの薮やナニワイバラに縁どられ、草の生い茂った小路を見下ろしていた。

 本当の春の先触れは、人間の目と耳では感知できないほど微かなのだ。
 咲き乱れるクロッカス、木のスターであるハナミズキ、ルリツグミの声――もっとわかりやすい印として、去り往くソバの実や牡蛎に手を振ってからでないと、鈍感な胸に新緑の女神を迎え入れられない人間もいるにはいる。だが太古の大地に選ばれし子らには春は真っすぐやって来るもので、大地の新妻から、反抗しないのなら実の子のように可愛がってあげる、と甘い言葉が届けられる。

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