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【後編】春のアラカルテ

<前編のあらすじ>
ある日の午後。ニューヨークでフリーのタイピストとして働くサラは、メニュー表に突っ伏して泣いていた。なぜか。
サラは、隣のシューレンベルグ・ホーム・レストランのメニュー表を毎日タイプする代わりに、三食を部屋まで届けてもらっていた。サラの住むニューヨークの街は、まだ冬の名残を感じさせつつも、少しずつ春が近づいている、そんな様相だ。窓から煉瓦の壁を眺めながらサラは、桜や楡が木陰を作り、ラズベリーやナニワイバラの並ぶ小路の風景を思い出していた。

 去年の夏、サラは田舎に行って、農家の男と恋に落ちた。

(小説を書くとき、このように時間を遡ってはいけない。悪いやり方だし、読者の興味を削いでしまう。どんどん先に進むマーチべきだ。)

 サラはサニーブルック農場に二週間滞在した。そこで、老いた農家であるフランクリンの息子、ウォルターを愛するようになった。
 農家というのは、恋に落ちたらすぐ結婚して、すぐ草むらの中へと戻っていくものだった。だが若いウォルター・フランクリンは、現代的な農業生産者だった。牛舎には電話を引いていたし、翌年のカナダの小麦の生産量が、新月の夜に植えたジャガイモに及ぼす影響を正確に計算できた。

 木陰とラズベリーのある小路で、ウォルターはサラにプロポーズし、承諾してもらった。そして二人並んですわって、サラの頭に乗せるタンポポの花冠を編んだものだ。
 自然におろしたサラの茶色の髪に黄色い花が映える、とウォルターが際限なく褒めるものだから、農場に戻るときも、サラは麦わら帽を手にぶら下げて、花冠を頭につけたまま帰った。

 二人は春に結婚することになった――春の最初の報せが来たらね、とウォルターは言った。
 そうしてサラはニューヨークに帰り、がんがんタイプライターを打つ生活に戻った。

 ドアのノックで、サラの目に映っていたあの幸せな一日の映像が消えた。
 ウェイターが、シューレンベルグ爺さんのカクカクした文字が並ぶ、ホーム・レストランの翌日のメニューの鉛筆書きの下書きを持ってきたのだ。
 サラはタイプライターに向かい、ローラーにカード用紙を挟んだ。サラは仕事が早いタイプの人間だった。たいてい、一時間半もあれば二十一テーブル分のメニュー表を仕上げられる。

 今日は、いつもよりメニューの変更が多かった。
 スープは軽めのものになっていた。
 アントレから豚肉がなくなっていて、ロースト肉にスウェーデンカブを添えたものだけが残っている。
 春の恵がメニュー全体を侵食していた。緑の丘を跳ねまわってケッパーいた子羊は、その元気を讃える言葉遊びかケッパーソースを掛けられ、食い物になっていた。牡蛎の歌声は、完全には消えていなかったが、愛をこめたコン・アモーレディミヌエンドとでも言おうか。フライパンはグリルの慈悲深い檻のなかに囚われ、じっとしているようだ。パイのリストが膨らんでいた。濃厚なプディングは消えた。柔らかいひだに包まれたソーセージは、ソバの実と、甘くも最期の近いメープルと一緒に、優雅に死相を見せながらかろうじて残っていた。

 サラの指は、夏の小川の上空をさまようユスリカのように踊った。
 コース料理を上から順にタイプし、正確に料理名の長さを見極めながら、各品を適切な位置に打っていった。
 デザートの上に野菜のメニューが並ぶ。ニンジンとグリーンピース、アスパラガスの載ったトースト、多年草のトマトにコーンのサコタッシュ、ライマメ、キャベツ、そして……

 サラはメニュー表に突っ伏して泣いていた。
 天上の絶望の深淵から湧いた涙が、サラの胸にこみ上げ、眼に集まった。
 タイプライターの小さな作業台に、サラの頭が落ちていった。サラの湿った泣き声に、キーボードがカタカタと乾いた伴奏を鳴らした。

 二週間もウォルターから手紙が途絶えていて、しかもメニュー表の次の料理はタンポポが使われていたのだ。タンポポとなにかしら卵を添えたものだったが、いまは卵なんかどうでもいい! タンポポの黄金色の花で、ウォルターは、愛の女王と未来の花嫁として、サラに戴冠してくれた――春の報せでもあるタンポポ、悲しみの悲しい冠。幸せな日々の思い出の花。

 既婚女性マダムの皆様には、次のテストを笑顔で乗り越えていただきたい。
 あなたがパーシーに愛を捧げた夜に彼からもらったマレシャル・ニール種の薔薇が、フレンチドレッシングのかかったサラダとして、シューレンベルグの会食ターブル・ドットで出されたとしたら。
 かのジュリエットも、自分の愛の証がそんなふうに穢されたら、あの薬屋に記憶を失くす薬草を求めただろう。

 それにしても、春はなんて魔女なのだ! 石と鉄でできた冷たい大都会にも、春の報せを届けなければならない。
 ごわごわした緑のコートと穏やかな空気をまとった、野原の小さく頑健なメッセンジャー以外に、春の報せを届けられる者はいなかった。まさに春の傭兵とも言えるメッセンジャーのタンポポだが、フランス人シェフたちは、ライオンの歯のようだからとダン・デ・ライオンと呼んでいる。花を咲かせるようになると、愛する女性のナッツ・ブラウンの髪を飾って恋愛をアシストする。花が咲く前の若く未熟な時分には、煮えたぎる鍋に飛び込み、君主たる女神の言葉を伝える。

 なんとかサラは涙を押し戻した。メニュー表を仕上げなければならない。タンポポの黄金色の夢に半ば浸ったまま、束の間、心ここあらずの状態で、サラはタイプライターのキーを打ち続けた。意識と心は、ウォルターと共にあの茂った小路にあった。だが、すぐにマンハッタンの石畳の小路に意識を戻し、ほどなくタイプライターはガタガタと、ストライキを破る自動車のように跳ねた。

 6時に、ウェイターが夕食を運んできて、タイプされたメニュー表を持って行った。食事中、サラはため息とともに、卵の冠を載せたタンポポの皿を横に押しやった。明るく愛にあふれた花から穢れた野菜に変わり果てた、この黒い塊と同様に、サラの夏の希望も萎んで消えてしまった。
 シェイクスピアの言うように、愛は愛を糧にするのかもしれない。だが、サラにとっては初めての真実の愛を礼賛する装飾品であるタンポポを食べるなど、できそうになかった。

 7:30に、隣室のカップルが喧嘩を始めた。上の階の男性は、フルートでラの音を探っている。ガス灯が少し弱まった。石炭を運ぶ車が三台、荷下ろしを始めて、蓄音器がこの世で唯一嫉妬するであろう音を立てている。裏のフェンスの上にいた猫たちが、奉天に退却するロシア兵のように退却していった。
 これらのサインで、サラは読書の時間だと気づいた。今月のベスト・ノンセラーとでもいうべき『僧院と家庭』を取り出し、トランクに足を乗せ、主人公ジェラルドと共に旅に出かけた。

 玄関のベルが鳴った。
 家主の女性が応じた。
 熊に追いつめられ木に登ったジェラルドとデニスを放っておいて、サラは耳を澄ませた。そりゃあもちろん、諸君だってそうするでしょう!

 階下の廊下から力強い声が聞こえて、サラは床に本を放り出し、主人公たちも熊のもとに放置し、ドアに飛びついた。
 この先はもう、おわかりだろう。
 サラが階段にたどり着いたと同時に、彼も三段飛ばしで階段を上りきって、サラを刈取り、落穂ひとつ残さずに収穫しきった。

「なんで、なんで手紙を書いてくれなかったの?」とサラは泣きついた。「ニューヨークはけっこう広いんだね」とウォルター・フランクリンは言った。
「先週、サラの前の住所に行ったんだ。ある木曜日に引っ越した、とわかった。運の悪い金曜日じゃなくてよかった、と少しだけ安心したよ。だから諦めたりせずに、警察と一緒に探し回ったり、ずっとがんばったんだ!」
「手紙出したのに!」とサラは激しく言い返した。
「届いてないよ!」
「じゃあ、どうやって見つけてくれたの?」
農家の青年は春らしい笑みを浮かべた。
「今日の夕食に、隣のホーム・レストランに寄ったんだ」と彼は言う。
「どうでもいいことかもしれないけど、毎年この季節は緑色の料理が食べたくなるんだ。だからきれいにタイプされたあのメニュー表を見て、その手の料理がないか探した。キャベツの次に来る料理を見て、椅子をひっくり返してオーナーを大声で呼んじゃったよ。オーナーに、サラの住んでいるところを教えてもらった」
「覚えてる」とサラは幸せそうに息をついた。
「キャベツの次はタンポポだったね」
「Wがあんな風に上の行に飛び出ちゃうのは、世界中でもサラのタイプライターだけだって知ってたから」とウォルターは言う。
「え、タンポポダンデライオンにはWが一つもないじゃない」とサラは驚いた。
 ウォルターはポケットからメニュー表を取り出して、ある一行を指した。
 今日の午後、最初にタイプしたメニュー表だとサラは気づいた。右上の角に、涙がこぼれた放射線状の痕が残っていたからだ。でも、野草の名前があるべき位置に、黄金色の花の記憶に引きずられたサラの指は、無関係なキーを打ってしまっていた。赤キャベツとピーマンの肉詰めの間に、次の料理名が書かれていた。

「大好きなウォルター、固ゆで卵を添えて」


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※本訳文は、noteの表示画面に合わせて原文にはない改行・段落分けを入れています。数字の表記について、原文でアラビア数字になっている個所は訳文もアラビア数字、原文でスペルアウトされている個所は訳文では漢数字で表記しています

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