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国民国家とは~『国民国家とナショナリズム 世界史リブレット35』(谷川稔)~

久しぶりに、世界史関連の本の感想を投稿します。


主にドイツとフランスを手掛かりに、「国民国家」がいかに形成されたかを論じています。たまたまここしばらくの間、18世紀から19世紀後半までのヨーロッパ史を教える機会がなく、そのあたりの知識が薄くなっていたので、大変勉強になりました。特に普仏戦争をめぐる事柄を中心に、通り一遍で知っていた事柄の背景を知ることができたのが良かったです。

私は本を読んでいて気になった箇所に短冊をはさむのですが、本文はわずか79ページなのに、20枚以上の短冊をはさむ羽目になりました(^-^;


「本文はわずか79ページ」と書きましたが、この薄さが良いです。本文の上に注釈があるのも良いです。注釈が巻末だと、いちいちページをめくって読むのが億劫なので。


印象に残った部分。


国際ラグビー協会は、外国籍でも同一国で三年間プレーすればナショナル・チームの一員になれることを規定している。

3年とはけっこう短い気もしますが、ラグビーに限らずほかのスポーツも同じようにすれば、国際大会が代理戦争的な緊張感をはらむのを防ぎ、純粋にプレーを楽しめるのではないでしょうか。


過去の「歴史的体験」のどの部分を切り取り、共通の「国民的記憶」として制度化するかという選別過程には、強力な政治意志ないし国家意思による働きかけが介在する。
新しい国民史は、学校での歴史教育というメディアを介して広く共有されることとなった。たとえば、一八八四年に実証史学の大家エルネスト・ラヴィスが編んだ初等学校向けフランス史教科書(改訂版)は、(中略)小学生に「祖国」の観念を注入し、共和主義的公民をつくりあげる、国民教育の「バイブル」的存在となった。

歴史を教える教員の一人として、考えさせられます。


言語は日常生活に根ざしたコミュニケーションの基盤であるだけに、人びと(民族)を結ぶ強固な紐帯である反面、容易に「異なる者」を排除する根拠となりうる。これが人種主義や国家主義と結合したときは、質の悪い排外主義に転化する。ナチスはそのもっとも極端な例であろう。

いわゆる「グローバル化」が進む現代だからこそ、心に留めておかねばならない言葉だと思います。


国民統合のドイツ・モデルでは入り口でセグレガシオン(選別)が厳しくおこなわれており、人種的・排外主義的国民形成に陥りやすいが、そのために内向きには強制的・集権的同化政策をとる必要はないということになる。イギリスの歴史社会学者アントニー・D・スミスのいう「血統と民族を基本にするエスニック的・系譜的ネイション」の特色である。
フランスでは大革命(注:いわゆる「フランス革命」のこと)以来国民の観念を言語や人種といった客観的・血統主義的要素に求めず、フランスという「国家が掲げる基本原理を共有しようという意志」に、つまり意志的・選択的要素に求める考え方が基本であった。たとえばエルネスト・ルナン(注:哲学者、宗教史家)は、一八八二年の「国民とはなにか」と題する講演で、「国民とは日々の住民投票なのだ」と形容している。

2つ目の引用の「国民とは日々の住民投票なのだ」という言葉は、とても気に入りました。別の箇所ではフランスについて、「住民の主体的参加を基本とする市民的・領域的ネイション」(スミス)という表現が使われています。反面、だからこそ学校で各地方の言葉を否定するフランス語教育が行われるなど、「地域的・文化的マイノリティの排斥に転化」することもあるわけですが。

気になるのは、日本がドイツとフランスの悪いとこどりになりつつあるのではないかということ。つまり、「人種的・排外主義的国民形成に陥」っている上、「地域的・文化的マイノリティの排斥」もやっている気がします。


ナショナリズムはいろんな意味で宗教にもっとも近い機能をもっている。それゆえに、ナチズムであれ自由主義であれ社会主義であれ、どのようなイデオロギーとも結びつくことができる。まことに融通無碍な世俗的民族宗教だと言い換えてもよいだろう。

ナショナリズムの危険性を端的に表現した言葉です。


多文化主義は両刃の剣である。論理的には弱者保護の共生原理だが、現実には容易に敵対原理に転化する。(中略)多文化主義はエスノ・ナショナリズムの温床になりかねない性質をもっている。(中略)二十一世紀がエスノクラシーの修羅場になることを避け、多文化共生の世界に少しでも近づくためには、エスノ・ナショナリズムの克服、とりわけ宗教的寛容の実現が不可欠である。

多文化主義イコール善なるものと考えてしまいがちですが、その危険性を指摘していることに、はっとさせられました。そしてキーワードはやはり「寛容」なのですね。寛容については、以下の記事をご覧ください。


発行が1999年10月なので、2015年以降の地中海を渡る移民・難民の増加に伴うヨーロッパ各国での排外主義的傾向や、2016年のイギリスのブレグジットの決断などは、当然踏まえていません。だから巻末の「国民国家より高次の統合機構があってはじめて地域やエスニー(注:エスニック共同体)の自治は安定をえる」とか、「やがて自治と独立の区別が無意味になる、とまではいわないが、あえて独立する意味は希薄になるだろう」という言葉は、甘く感じられなくもないです。

でもそれでもあえて、「そういった時代の地球規模での到来を望みつつ、筆を擱くことにしたい」という最後の言葉に、心から同意します。



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