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【読書】絶版にすべきだったのかどうか~『小さいおばけ』(オトフリート=プロイスラー作、大塚勇三訳)~

昨年、初めてブックサンタになってみた時、選んだのはプロイスラーの『小さい魔女』でした


でも実は、同じプロイスラーの『小さいおばけ』にすることも考えていました。真っ白だったおばけが、不幸な間違いから昼間に目覚めてしまい、真っ黒になってしまった挙句、大騒動を引き起こす話です。

↑古本です。


しかし私がなじんできた大塚勇三訳はもう絶版で、新訳しか売っていないと知り、見送った次第です。新訳は読んだことがないので、確かめてからではないと、贈ることはできないと思って。


気になったのが、大塚勇三訳が絶版になった理由。この作品、原作も翻訳も、まだ著作権は消滅していませんよね? そもそも『小さい魔女』は、まだ学研で扱っているわけだし。ということは、ポリコレ的理由かなと思い、久しぶりに読み返すことにしました。まぁ新訳が出たのは2003年で、もう20年以上経っているわけで、今更絶版の理由を探っても仕方がありませんが。


まず「おお」と思ったのは、大塚勇三先生が満州生まれなことは、カバーの見返しを見て初めて知りました。父も同じなので。


次に驚いたのは、小さいおばけに実体があること。クモのすに頭を引っかけて、ほこりでくしゃみをするとは……。「うっすりしたきりとおなじように、空気みたいで、かるい」(p.7)ので、十三のかぎのついたかぎたばをかならずもちあるいて」(p.7)いないと、「ほんのかすかなそよ風がふいてきたって、小さいおばけはうかんでしまい、どこにとんでっちまうのか、わかったもんじゃ」(p.7)ないのに、クモのすに頭がひっかかり、ほこりの影響は受けるのね。

だけど、「軍刀ややりなんか、ぼくにきずをつけられやしないし、玉だって、ぼくにはなんにもできない」(p.19)、と。何だかいささか矛盾しているような……。

ともあれ実体がある証として、お手紙の最後に、署名代わりに親指で指紋捺印したのは、ちょっとウケました。おばけに指紋!


そして小さいおばけの天敵(?)のトルステン=トルステンソンが325年前にやってきたスウェーデンの将軍って、それ、三十年戦争の時の話じゃない!

ちなみに三十年戦争については、巻末の解説で簡単に説明されていました。ところでこの解説、「おかあさま方へ」となっていますが、ここがポリコレ的に駄目な点その1ですかね。読み聞かせをするのは母親と、決めてしまっています。でもこれだけなら、「保護者の方へ」とでも訂正すれば良いだけですよね。


ちょっと感動したのは、ここ。

小さいおばけにだって、じぶんのことを「きみ」なんてよばせませんでした

p.15

小さいおばけのお友達の、ミミズクのシューフーのことですが、曲がりなりにもドイツ語をやったので、今なら分かります。Duと呼んじゃだめで、Sieにしなきゃいけないってことね。それこそドイツ語をやったからこそ、挿絵の中にちょこっとあるドイツ語が読めることも、感慨深かったです。


しかしミミズクのシューフーの言葉、心に染みますね。

「いいですかな、わが友よ。……もしわしがあなたの立場だったら、べつにもんくはいいますまいよ。……この世に、かえようとしてもかえられないものごとがあっても、それにもんくはいいませんな。(中略)あなたはそれをみとめて、それでまんぞくなさったがいいですな。」

p.41

分別のある大人の意見って感じ。でも小さいおばけは大人ではないので、どうしても昼の世界を見てみたくて仕方がないわけですが。


ごぞんじでしょう? のぞみなんていうものは、まったくおもってもいないときにかなうことがよくあるんです。

p.42

思いがけない偶然から、小さいおばけは昼間に目覚めることに成功します。

これまで小さいおばけは、木は黒くって、やねは灰色なものとおもってました。ところがいま、木はほんとはみどり色、やねは赤いのに気がついたんです。
なにもかもが、めいめいとくべつな色をもってます!

1p.44

これに始まる様々なものの色の描写を読んで連想したのが、映画「ベルリン・天使の詩」で、それまで白黒の世界しか知らなかった天使のダミエルが人間になり、色というものを初めて知る場面。天使の世界は、個人的には東ドイツの象徴だと思っていますが、そうだとすると小さいおばけが暮らす夜の世界が東ドイツで、昼の世界が西ドイツ?


ちなみに大塚先生、平気で「い抜き言葉」を使っておいでです。子ども向けだからこそ、「おもっていました」「もっています」と、ちゃんと書いてほしいなぁ。


ともあれ昼の世界を探検しようと思った小さいおばけは、様々な騒動を引き起こすことになります。まずはお城に見学に来ていた小学生たちとの、追いかけっこ。

みんなは、「ホッホッホー!」とインディアンの叫び声をあげながら、どっとばかりに控えの間をかけぬけ、戸口のほうにおしよせました。

p.49

はい、ポリコレ的に駄目な点、その2ですね。これ、「ネイティブアメリカンの叫び声」と言い換えるだけでは駄目だし、新訳はどうなっているのでしょう。

<追記>
新訳は「ワアワア叫びながら」という、非常に無難な訳でした。


ポリコレ的には大丈夫だけど、ちょいちょい表現が古いのも、新訳が出た理由ですかね。68ページの天水桶とか。


「みんながぼくを見ると、きまってすぐににげだすのはざんねんだな! だけどそいつは、きっとぼくが黒いせいだろう。まえに白かったときだったら、ぼくは、いまよりずっとおとなしげに見えたにちがいない」

p.76

えーと、白かった時でも、おとなしげに見えたとしても、みんなはにげだしたと思いますよ。
ところでポリコレ的に考えると、黒くちゃ駄目なのか、ってことになりますよね。白が良くて黒が悪い、と言っていることになるので。まぁそれを言ったら、新訳どころか、この話そのものを変えなきゃいけなくなってしまうので、それはポイントではないでしょう。


「ぼくは、じぶんの運命をひきうけるのを、かくごしなきゃならない、……それしかないんだ。」

p.78

小さいおばけの悲壮な決意に、泣きそうです。


「その黒い怪人物と、ここにあるような町の歴史……。」といいながら、ホルチンガーさんは、町長さんのつくえにつみあげてある、よごされたポスターの山をゆびさしました。「……このふたつのあいだに、なんらかの関係があったとしても、わたしはすこしもおどろきませんな。」

p.90~91

ホルチンガーさん、勘が良すぎです。ところで捜査部長のホルチンガーさんの方が、警察署長より態度が大きい感じなのは、なぜ?


ところで大歴史劇を見にきた観客の中に、ホッツェンプロッツに激似の人がいるんですよね(p.114)。挿絵は同じフランツ・ヨーゼフ=トリップなので、まさのカメオ出演でしょうか。

あと、大歴史劇の中でスウェーデン軍が「フィンランドの騎兵隊行進曲」を演奏しているのは、三十年戦争の時点ではフィンランドはスウェーデン領だからですね。世界史をやったからこそ、こういう細かいことも分かると思うと、感慨深いです。


月よう日のひるに目をさましたとき、小さいおばけは、頭がずきずきしていました。それに、なんかぐったりして、つらいかんじです。

p.127

トルステンソンが戻ってきたのかと勘違いして、大暴れしてしまった翌朝のシーンですが、怒りって自分を傷つけますよね。小さいおばけの「つらいかんじ」、よく分かります。


おちついて、とっくりと話しあうとしましょうわい……。

p.153

シューフーの言葉ですが、しましょうわい、って……。どこの地方の言葉?


なかまにできるひとがだれかいたほうが、わしは、ずんとくらしごこちがいいのですわい。

p.172

これもシューフーの言葉。金言です。


結局このお話の眼目って、何なんでしょうね? 「これからさきは、いつまでも、ぼくにむいた場所でくらすよ」(p.170~171)という、小さいおばけの言葉に集約されるとおり、自分に向いた場所で暮らすのが幸せということでしょうか。でもそれが幸せだということは、昼の世界を見たからこそ分かったことなのだから、自分の枠をはみ出すことも必要ということかな。


巻末の解説を読んで知ったのですが、プロイスラーは1923年に生まれています。つまりフランスとベルギーによるルール占領、その後の空前のインフレ、それらを受けたヒトラーのミュンヘン一揆の年です。ドイツがどんどん不穏な方に向かう時期ですね。

しかも生まれたのが「チェコスロバキアの北西部、ボヘミア地方のリベレツ」(p.176)となっていたので調べてみたら、ズデーテン地方の一部でした。「おそらくは戦後のこと、プロイスラーはドイツ南東部のシュロスベルクにうつって小学校の先生になり」(p.176)とあるのは、戦後ズデーテン地方からドイツ人が国外追放となったからでしょう。


で、大塚勇三訳は絶版で良かったのか問題ですが、まぁいろいろ言葉が古めかしいのは事実とはいえ、野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』と村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のように、新訳と並行で旧訳もあって良いような気もします。でも、売れないかな。そもそも新訳は上記の通り、すでに20年以上前に出ており、2022年10月1日付で20刷が出ているのだから、検討しても無意味なわけですが。


見出し画像には、「みんなのフォトギャラリー」から、小さいおばけのお友達のミミズクのシューフーさんにちなみ、ミミズクの写真をお借りいたしました。


↑古本です。




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