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バットを振る【掌編】

野球はやめた。
何年前だ?
かれこれ10年近く前になるな。

それでも夜の8時になると、自然とバットを持って近くの公園にでかける。
なにかの力に引き寄せられるように、無意味だと知っていながら私はバットを振りに行く。
立つべきバッターボックスも、対戦するピッチャーもいないのに、その前段階の準備作業を何度も何度も繰り返す。

バットを振る。
体重移動を確認する。
腰の動きを繰り返して、体全体を連動させる。
以上の動きを踏まえた上で、またバットを振る。
10回とりあえず振ってみる。

ブンブンブン・・・

高校生のときよりも、空気を裂く音は鋭くない。
体のキレも落ちている。
それでもあの時以上に、私はこの行為を無意味に愛している。
無意味だという事実が、むしろ私には意義深いのだ。

ブンブンブン

100回バットを振った。
汗がこぼれ落ちてくる。
手の平のマメが熱くなり、息が上がる。

「少年、まだやってるのかね」
誰かが後ろから声を駆けてきた。
振り返ってみると、そこには少年野球の時のコーチが立っていた。

「あ、コーチ!お久しぶりです」

「なんだ、そのフォームは。小学生の頃の方がもっと鋭かったんじゃないか?」

「いやあ、私ももうアラサーなので」

「そうか、もうそんなに大きくなったのか」

私とコーチはその場でしばし語り合った。
なんてことのない、後になったら思い出せないようなそんな雑談だった。

「ところで、いまだに素振りをしているということは、どこか草野球チームにでも入っているのかね?」

「いえ、なんでしょうね、ただ振っているんです。野球は高校卒業と共にやめてしまいました」

コーチは少し不思議そうで、かつ嬉しそうな顔をした。
「素振りだけをただ繰り返していると?なにをモチベーションにして続けているんだい?」

「慣性の法則ですよ。時間になると体がそっちの方に動いてしまうんです。繰り返されるこの作業の間だけは、仕事のことも忘れられて心も休まりますし。不安になると、たまに会社でもバッドを振りたくなったりもします。私にとっては、バットを振るっていうのはある種のゲン担ぎみたいなものかもしれませんね」

「そうか・・・そうか」
コーチは何度かうなずいて、昔よりもいくぶん弱々しくなった笑顔で私をみつめた。
「どうかね、今度またうちのチームにきてコーチをやってみないかい?ほら、毎日欠かさず素振りをしていることだし、ノックくらい屁でもないだろう?」

「お誘いはとても嬉しいのですが、野球はもういいんです」
汗がだんだんと冷めてきて、私は少し肌寒くなってきた。
「私はもう野球には興味がないのです。プロ野球もまったく見なくなってしまいました。バットをこうやって振っているのも、野球をしたくてやっているわけではまったくないのです。確かにフォームやら、動きを確認する作業は野球のそれですけどね、私にとってこの作業は野球の一部ではなくなってしまっているのです。強いて言うなら、生活の一部といいますか」

「そうか、野球はもういいか」
コーチは少し寂しそうな声をしていた。
「まあ、気が向いたらいつでも顔を出してくれよ。毎週土曜日、朝9時からいつものグラウンドでやっているから」

そういうと、コーチはまた夜の闇の向こう側に消えていった。

私はしばらくコーチが去っていった暗闇を見つめていったが、大きく深呼吸をしてからまたバットを振り始めた。

ブンブンブン。
なんの意味もない、だからこそ意義深い。
この時間をただ守りたかった。

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