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「3.11」 と わたし Vol. 26 わくわくする楽しいふるさとへのプロローグ

飯舘村長 杉岡 誠 さん

震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前この先の10年

今日の主人公は、村長の 杉岡 誠 (すぎおか まこと) さん。

生まれも育ちも首都圏ですが、長期休暇のたびに祖父母の住む飯舘を訪れていました。
そこは、広大な自然と人々の笑顔、「わくわく」感があふれる楽しい場所。

幼少期の経験を通じ、彼にとっての飯舘村は、
遠くにある「田舎」から「ふるさと」という自分ごとに変わっていきます。

村に移住をして約20年。2020年10月には飯舘村長に就任。
「わくわく」を感じる新しい飯舘村へのスタートを切りました。


飯舘村と私

 私は2000(平成12)年に母の郷里である飯舘村にIターンしてきました。東京で生まれ、神奈川県川崎市で育った私は、大学院を修了するまでは首都圏で生活していました。私にとっての飯舘村は、祖父母が暮らす田舎という存在以上の「わくわくする楽しい」場所でした。

 幼少の頃は、夏休み、冬休みの度に飯舘村を訪れるのが何よりの楽しみでした。村に来れば従姉妹たちと共に朝5時前に起きて、お寺の住職である祖父とご本堂で朝のお勤め。その後は8時くらいまで祖父母と畑仕事。8時半過ぎにお腹ペコペコになったところで朝ごはん。少し休んだら探検をして遊び、お昼には孫たち総勢9人が連なって、近くの食堂に行くのが決まりでした。夜には盆踊り、花火、蛍探し。夏でも掘りごたつの火を絶やしたことがない涼しい村の夜を、蚊帳を吊ったご本堂で過ごしたことが忘れられません。

 そういった楽しい思い出が、いつしか遠くにある「田舎」を自らが暮らしたいと思う「ふるさと」という大切な場所にさせていったのです。村の広大な自然、そこに暮らす人々の大らかで明るい人柄、生き生きとした笑顔に手招かれるように、24歳のとき村に居を移しました。

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未曾有の大震災の発生

 東日本大震災が起きた2011(平成23)年3月11日は、私が飯舘村役場に入庁して10年目の年度末でした。大震災とその後の原子力発電所事故は、飯舘村に紡がれてきたもの全てを一変させました。

 前日に徹夜で新年度のそば・大豆振興のための資料を作っていた私は、出張先の福島市内であの震災を経験しました。福島県庁のすぐ近くのビルの5階で、県内全市町村の担当者が出席する会議に参加していた午後2時46分、どんどん大きくなる終わりの見えない地震に、「ここで自分の人生が終わるのか」と思いつつ、妙に冷静になっていったのを覚えています。

 福島市内から飯舘村へ戻る道すがら、火事や道路崩落がないか注視しつつも、村がどうなっているのか、心配でたまらない思いで、停電で信号機の点滅さえなくなった道路に公用車を走らせていました。


横断的な災害対応と全村避難

 農政係員だった私にとって、村防災計画上の任務は農業災害等の情報収集・整理ですが、2003(平成15)年から2010年(平成21年度)まで総務課に配属されていた経験から、消防、防災、電算、庁舎管理、職員配置等の業務を同時並行でこなせる人員として、翌3月12日から災害対策本部付けとなりました。

 災害対策本部では停電が続き、電話が不通になる中で、各部署から上がってくる膨大な地震被害情報の整理と共有はもちろんのこと、職員への指示・管理、村から行政区・学校・消防団等への連絡など、防災訓練で経験、想定していなかったことを矢継ぎ早に実施しました。

 何より苦心したのは、本部に設置された限られたPC、プリンタしか使えなかったこと、各職員が所持している私用の携帯電話でさえ充電がままならなかったことです。このため殆どのことを手作業で記録、共有し、広大な村内各所への連絡もほとんどが「言い継ぎ回し」が主となりました。

 そういった中で、3月11日の深夜から村に避難を求めてくる方々の車が県道に列をなすようになり、翌12日からの集計では、楢葉町や双葉町、南相馬市などから約1200人の避難者に対して、村内5か所に避難所を開設し、順次受け入れていったのです。私自身は当初5日間、役場に泊りがけで対応にあたりました。

 その最中の3月14日は、私自身の誕生日でもありましたが、村の停電が復旧し、明るさと僅かな希望を感じたのも束の間、福島第一原子力発電所建屋の爆発映像が目に飛び込んできた日でもあります。この日のことは、一生涯忘れられません。

 私はパソコンを使った電算処理が得意だったこともあり、当初は被害情報や避難者情報の整理、空間線量測定結果のグラフ化などを行い、あわせて3月末まで、燃料確保、自主避難、水の摂取制限への対応、飲料水配布、汚染状況の把握とマップ化などを行いました。

 その後、4月に入って国による計画的避難指示の報道があってからは、通常の電算システムでは対応できない被災証明書の発行、義援金の支給、避難先の意向調査の実施と集計、家電メーカーから日赤を経由して寄付される家電セットの個々の避難先への搬入日等管理、1次避難先・2次避難先の情報管理など、災害対策本部で議論された村民対応で、おおよそ関わらないものはなかったと記憶しています。

 また国の計画的避難指示が出る前は、村に残って対応にあたっていた若手世代と、夜が更けるのも忘れて話し合いながら、子供たちの避難や村の行く末について、自分たちが為すべきことを考え、実行していきました。

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村民の生きがいの再生へ

 それからの10年間はまさに怒涛のような日々でした。すべてを記すと、何十倍にも膨れてしまいますので、ここでの詳述は避けますが、濃密で必死な10年間。村民の復興、生きがいの再生に向けて前を向き、色々なことを実施してきました。

 その大きな原動力となってくださったのも村民の皆さまです。原発事故と全村避難を経ても、農家の方々から「農業をしたい」という声がいくつも上がってきたのです。

 これはとてつもなく大きな事だと思います。一旦は全村避難で先行きの見えなくなった村で、「それでも農業をしたい」という声があった。そういった村民の皆さまの熱い想いあればこそ、何としてでも、その想いを実現しなければならない。無理難題だと言われた避難先での営農再開や予算取りにも不退転の覚悟で取り組めました。

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「わくわくする楽しいふるさと」に向かって

 そして、東日本大震災から10年が経過する2021(令和3)年現在、飯舘村長に就任し、この大切なふるさとへの想いを新たにする毎日です。

 飯舘村がここまで来ることができたのも、村内外、県内外の多くの皆さまの温かいお心あってこそのものです。

 この10年間、たえず飯舘村を見守り続けてくださったことに改めて深く感謝申し上げます。

 「明日が待ち遠しくなるような、わくわくする楽しいふるさと」というものを私は掲げています。「わくわくする」「楽しい」ということは、言葉のイメージ以上に難しい概念であるかもしれません。しかし、それは決して特別なことではなく、私自身が幼少の頃、この村に対して感じていた「わくわく」感や「楽しさ」の延長線上にあるものであり、誰もが持ち得るもの、持ちたいもの、だと思っています。

 「わくわく」「楽しい」ということは、日常を多彩に彩り、祝福する感情です。村民をはじめとして、「ふるさと」を愛し、楽しみ、喜びをともにする皆さまが「ふるさとの担い手」です。お一人おひとりが、ふるさとを味わい尽くすことが、「わくわくする楽しいふるさと」に繋がっていきます。これから先の新しい「ふるさと飯舘村」を皆さまと一緒に形作って参りたいと思います。


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