「3.11」 と わたし Vol.13 みんなの夢を食べて生きる獏
村カフェ753 田中久美子さん
震災から10年の節目、
飯舘村に様々な立場から関わる人々が語る
自分自身の10年前と今とこの先の10年。
今日の主人公は、地元東京を離れ、震災前から福島に関わっている 田中 久美子 (たなか くみこ) さん。
震災後、一度は神奈川で働いていたものの、2016年頃から看護師として福島や飯舘村との関わりを再開。
震災前に見た、「田園風景のよく似合う飯舘村」の姿は
そこにはありませんでした。
ふとした夢物語から、いまや村で大人気のベーグル屋さんができるまで。
湧かない現実感
2011年3月24日に福島県立医科大学大学院の修了式を控え、その日(3月11日)は解放感いっぱいの気分でパリにいました。
その日突然、ホテルの従業員に
「Vous êtes japonais ? La pauvre…(あなた日本人?かわいそうに…)」
と哀れみいっぱいに言葉をかけられ戸惑いました。
その従業員が指さすテレビの画面には、波にのまれる福島の港町らしき風景が映し出されていましたが、映画の一場面を見るくらいの感覚で、とても現実におこっていることとは信じられませんでした。
でも、それが現実だということを、携帯に山ほど入ってきた日本からのメールで知らされました。
すぐに福島へ戻り、看護師として国見町の観月台文化センターに開設されていた避難所の支援に入りました。
避難所のTVでは、今度は東京電力福島第一原発の爆発時の映像が繰り返し流されていました。
ここまできても全く現実感がない中で、
避難所から毎晩美しい星空を見上げては、
「もう私たちの未来はなくなっちゃったんだ」と暗い気持ちでいました。
4月から神奈川県立がんセンターへの入職が決まっていましたが、あまりに悲惨な福島の状況を鑑みて、そのまま医療者として福島に残った方がいいのではないかと何度も考えました。
しかし、その時の大学院の指導教授から「遠くにいても福島のためにできることはある。今でなくても福島のためにできることはある」と説得され、4月に入って、後ろ髪が惹かれる思いで神奈川県立がんセンターへ向かいました。
福島の状況とは全く違って、衣食住そろった神奈川県での生活は、それはそれで現実感がなく、一体自分が今どこに生きているのかわからないまま、とにかく仕事だけはこなしていました。
それから日常を取り戻すまでに半年近くかかったと思います。
体重が10kg近く減っていたのも気がつかない日々でした。
“遠い日の出来事”からのリベンジ
それから5年間、神奈川県立がんセンターで働きました。
3.11から5年も経つと、関東圏ではもう3.11は“遠い日の出来事”のようになっていました。
その反面、福島で働く大学院の同級生たちは、日々、被災地の復興に汗を流しています。
「今の方が5年前より医療者として役に立てるかも…」と思い、2016年に相馬市に大学院の同級生たちが立ち上げていた「NPO法人 相双に新しい医療保健福祉システムをつくる会(通称、なごみ)」へ転職しました。
2011年のリベンジです。
その頃、帰還困難地区となっていた飯舘村や浪江町の被災者の方々は、5年間も相双地域の応急仮設住宅でじっと辛抱強く暮らしていました。
そこへ看護師として訪問するのが私の仕事でした。
2017年に飯舘村の避難指示が解除されてからは、今度は飯舘村へ訪問に入りました。
震災前に見た飯舘村は“田園風景の似合う美しい村”という印象でしたが、その時みた飯舘村は、黒いフレコンバッグがそこかしこに山積みになっていて廃墟の村のようでした。
「こんなところへ帰ってきて暮らせっていうの?」と部外者の私でさえ怒りを感じました。
多くの飯舘村の方々が帰村しなかったのも納得できました。
帰還できなかった6年間が村を全く違う姿に変えていたのです。
思いつきと、みんなの夢
その頃は、飯舘村に訪問へ行き、旧椏久里珈琲店の前を通り、村に一件しかないセブンイレブンで買ったお昼を食べるのが日課でした。
震災前にあんなに賑わっていた椏久里珈琲店の駐車場にはチェーンが張られ、人気はありません。
「この店が開いたら、飯舘村もちょっとは元気になるのになァ」という思いがふっと頭をよぎりました。
このふとした“思いつき”を、仮設住宅で知り合った飯舘村の北原さんに酒の席で話したところ、次の週には福島市に再興されていた椏久里珈琲店に誘われ、市澤オーナー夫妻に紹介されました。
単なる“思いつき”だったので何の具体的ビジョンもありませんでしたが、夢物語を語る私に、市澤夫妻は真面目に耳を傾けてくれました。
この時から、2020年4月に実際に旧椏久里珈琲店の店舗を借りて、ベーグル屋をオープンするまで約3年かかりました。
その間、市澤夫妻はもちろんのこと、埼玉でベーグル屋を営んでいたいとこや、縁もゆかりもない素人の私にパン作りを教えることになった新地のパン屋の斉藤パティシエなど、たくさんの人たちが私の“思いつき”に振り回されたと思います。
それでもみんながじっと我慢してくれたのは、私個人への支援ではなく、
「飯舘村を何とか元気にしたい」という思いがみんなの中にあったからです。
私はみんなの夢を食べて生きる獏になった気持ちでした。
思い描く、10年後
こうしようああしようと計画を立てて自分の人生を考えても、
その通りになったことはありません。
むしろ殆ど違った方向へ行ってしまうので、
10年後の自分について考えるのはやめることにします。
でも、10年後の飯舘村を思い描くことはできます。
テクノロジーの進歩は著しいので、
廃炉に30年かかるといわれている第一原発も、
もしかしたら人類の英知で10年後に廃炉が完了しているかもしれません。
放射線量も少しずつ下がり、
飯舘村が10年前のような“田園風景の似合う美しい村”に
戻っている可能性は高いと思います。
やっぱり飯舘村には田園風景がよく似合う。
関連リンク
カフェホームページ
https://www.muracafe753.com
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