浮かれ、憎しみ、惜しむ。--夏の終わり--
夏の終わりに、想う。
夏は、私たちが浮かれることを許してくれる。
「せっかくの機会だし」と 友達と水着をもって、遠くの海にまで出かけた。水平線に浮かぶ夕日の残像は、今でも忘れられない。
長い休みを使って、海外旅行に出かけた。忙しない日常から逃れて、楽しく 心地よい、終わってほしくない非日常に溺れていく。
浴衣に着替えて、いつもより2割増しの容姿の人が集い、夏の風物詩が打ち上がるのを見届ける。「花火よりも、君の方が綺麗だよ」なんて、ハッピーエンドの生ぬるいシーンはもう見飽きた。
夏は、なんでも言い訳にさせてくれる。
人はわざわざ、料金が高騰して殺到する夏に旅行を設定する。たしかに 学校の夏休みや企業の休暇があるかもしれないけどさ、人が少ない時期に行けばいいじゃんかって。
ちがうんだよ、夏に行くから意味あるんだよ。春に、水着をもって 市民の温泉プールに出かけて、泳ぐ。そんなんじゃない。夏に、現実逃避したい人たちで集って、出かけていくから夏なんだよ。ちょっとくらい日焼けしたっていいやって、許容させてくれるのが夏だもん。
普段は空っぽの冷凍庫も、夏は何種類ものアイスでいっぱいになる。今年こそは痩せるぞ!って決めたくせに、なんなら 気温関係なく冬もアイス食べてるくせに。いつ見たって、新しい味のスーパーカップとスイカバーの箱がそこにある。いいじゃん、夏だもん。
うだるような外の暑さと対照的に、夏なのに 凍えるようにクーラーで冷える室内。汗が止まらなくて、喉の渇きを潤すためにカフェに入って、いつものアイスコーヒーを注文する。2時間も居座ったときには、手先が冷え 徐々に腹痛が襲い掛かる。いつも後悔する、「カーディガン持ってくればよかった、ホットコーヒーでよかったやん」って。なぜかいつも同じことを繰り返す、でもいいんだ これがきっと夏だもん。
夏は、行き場のない憤り 憎しみをくれる。
そうは言っても、友達と夏の思い出作りに繰り出す機会なんて稀で、今年の夏は浴衣も来ていなければ 海にさえも行っていないのが僕だ。
「わざわざ、人が多いところにお金をかけて出かけて、疲れに行ってるようなもんやん」とぼやいては、涼しいところで書を読み、内省しては 何かを書いていることが多い過ごし方をするのである。
片やSNSでは、海でのバカンスを楽しみ、海外旅行に出かけ、フェスに参加し。充実した夏を過ごす報告で溢れかえる。
「自分に合った、心地よい過ごし方できているからええやん」と思う自分。「あー、今年は海行かなかったな....。行くきっかけもなかったな」と 微小の憧れの気持ちを昇華させる自分。今年の夏季休暇は3日しかなかった。友達やパートナーとも予定が合わず、特に大きなことはしなかった。
自分が その過ごし方を選んでいる。でも少し、もどかしさも感じる。それでも 灼熱の太陽は照り付ける。うだるような湿気、行き場のない 憤りと不快感。そして、時々素直な感情になることができない 自分への憎しみ。昔から、専ら集団行動はにがてだった。
夏はもう、あーだこーだ、言わせてくれない。
9月に入った。
地を焦がすように照り付ける太陽は徐々に鳴りを潜め、心地よい風が吹く夜が帰ってきた。「夏を忘れるなよ」と言わんばかりに 日中に高熱をもたらす季節も、直に終わりを迎えるだろう。
何カ月もかけて計画して、浮かれるように待ち焦がれた旅行は もうそこにはない。夏を言い訳にして、浴衣を着ることももうできない。「夏のくせに、店内はさみーんだよ」って愚痴垂れるクーラーの使い方も、来年までさよならだ。
夏をつまみにして、あーだこーだ言わせてくれる季節は もうすぐ終わろうとしている。誰かと過ごす思い出深いひと夏も、一人寂しく地味に過ごすことになった夏も、外に出ては 口癖のように「暑い」と零れ出る夏も。すべて その瞬間、2019年にしか訪れない 夏なのだ。
そう想うと、なんだか懐かしいというか 名残惜しくなってくる。
蒸し暑く 窓を開ければ鳴きわめいていたセミ。あの夜は 寝苦しかった。チャリをかっ飛ばして、そのへんまで 出かけてみた。夜に帰ってきて、駐輪場を訪れると、気づけば コオロギが鳴いている。
浮かれ、憎しみ、惜しんだ、夏。
さようなら、夏の終わり。