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旅をふりかえって3

どうも。

最後は釜石偏です。


3・11東北地方太平洋沖地震で発生した津波に最も被害を受けられた

釜石市鵜住居町というところに行ってまいりました。

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こちらも一度実際に行って見ておきたかった場所であり、正直、行くのを少し躊躇していた場所でもあった。

あんなとんでもない津波に襲われ、それでも復興に今尚尽力している地域なのに、僕自身が、その具体的な被害の内容に、数々の無念の真実に目を向けることが内心怖かったからだ。


今回、メインで訪れたのは釜石鵜住居復興スタジアムのすぐ近くにある、多数の犠牲者が出た鵜住居区防災センター跡地である「釜石祈りのパーク」と

「いのちをつなぐ未来館」で、両施設は同じ敷地内、隣同士の場所に位置していた。

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震災当時の鵜住居区防災センターにおける具体的な被害としては

震災当日に約241名の方々がこの施設に逃げ込み、津波被害の後の生存者がわずか34名。建物内からは69名の遺体が見つかり、残りの方々は行方不明。

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上の写真(釜石市東日本大震災慰霊碑)の場所は街の中では少し丘になっている場所に位置しているのだが、右側の黒い壁の一番上部分まで津波は来ていた。

いのちをつなぐ未来館であった資料によると、生存者34名の中の方々による当時の状況説明には、二階建ての施設の天井付近(頭部一個分のスペースがあるかないか)まで海水が入ってきていたようで、天井をいくら叩いても外には出られず、体力が尽き、体制を維持できない方々が次々と沈んで行く光景を目の当たりにしたとのことだった。

その資料を読んだ時は本当に心臓をギュッと掴まれたような感覚になった。

唯一の救いとしては、日常的に「津波てんでんこ」(津波が起きたら自分の命は自分で守ろう)という標語に基づいた防災教育、並びに防災訓練を受けていた周辺の小中学生徒たちは教職員の方々の妙々たる引率もあり、被害者(津波当日登校していた生徒達に関しては)がゼロだったという事実だ。

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こういった被害の後の残置物等も展示されていて、この背景を想像し、様々な感情が湧き上った。

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そして二度とこんな被害が出ないようにするためにはどうしたらいいのか、子供達にこんな願い事を二度と書かせたくないという思いから目を背けずに考えていかねばならないのだと

改めて痛切に感じた。


復興は今も尚進んでいて、新しい道路、新しい建物も増え、年々、街が息を吹き返すように変わってきている。

お土産屋さんや食堂等で見かける街の方々は皆、笑顔だった。

僕は時間がなかったので、お土産を数点購入させていただき、この鵜住居を後にした。

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釜石市最後に立ち寄った釜石駅の近く、魚河岸で鳴らした鐘。


というわけで今回で岩手の旅をふりかえってシリーズはラストになります。

読んでくれてありがとう。

何より、行きたいタイミングでなんとか行けたことが本当に良かった。

岩手は心動くものが沢山ありました。

皆も是非いつか訪れてみて下さい。

自分は今回の旅ですごく沢山のインスピレーションをもらったので、それをどうにかアウトプットさせて、ライブもまたやりたい!

とりあえず、

今年は本当に皆、頑張った年だったよね。

来年こそはこの頑張りが報われる年になりますように。

憎っくきパンデミックが終息する日を引き続き祈っております。


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