人間はストーリーである

イスラエル・パレスチナ問題。
世界で最も解決が難しい紛争。
世界で最も解決が難しい対立。戦争。隣人問題。

この問題の根源はなにか。

根源は、ストーリーによる問題である。


◾️ストーリーとは

ストーリーとは、

私、そのもの。
私が、何者であるか。
私たちが、何者であるか。
親は、先祖は何者であるか。
私たちがどういう環境、土地とともに生きているか。
そこで連綿と続く日常。生活。
そこで生まれる感情。
暮らしの中での人間関係、仕事、役割。
私は何人だ、という認識。
民族。国。社会というまとまり。
その暮らしと共に根ざす思想。哲学。宗教。信仰。
それらが生み出す歴史。
ヒストリーというストーリー。
アイデンティティ。
全ての連綿たる繋がり。関係性。連鎖。因果。
全てを繋がりとして、因果に繋ぐ、
人間、そのもの。
言葉、そのもの。
意識、そのもの。
意味、そのもの。
存在、そのもの。

イスラエルはユダヤ人、ユダヤ教というストーリーの中に生きている。迫害を受け続け、棲家を追われ離散しなお迫害と弾圧を受け続け、約束の地へ戻ろうと悲願してきたユダヤ民族の歴史という2000年以上かけたストーリーの中で生きている。
一方パレスチナはアラブの地でずっと息づいてきたアラブ人という民族生活の歴史、ストーリーの中で生きており、この隣人問題に対して、過激派がイスラム教というストーリーを上乗せしつつ対立構造となっている。

これらはストーリーとストーリーのぶつかり合いである。

イスラエル・パレスチナ問題に限らず、
人間の摩擦・衝突・対立は、すべてストーリーの問題である。
もっと言えば、人間の問題は、すべてストーリーの問題である。


◾️人間とストーリーの関係性

我々はストーリーに依って生きている。
ストーリーとは因果である。

もしストーリーを少し解体することが出来れば、
我々は、そこでただ生命体が生命活動をしている、というだけである。
もっと解体出来れば、そこにはエネルギーの情報の関係性と連鎖があるだけである。
しかし、ストーリーはそれを阻む。
ストーリーは簡単には剥がれない。
ストーリーをなくすことはできない。
ストーリーなくしては人間は認知をすることができないからだ。
我々は、認知のために、ストーリーを作り出す。
我々は、全てに対して因果を感じ、ストーリーを作り出す。
関係性は認知された時に、すでにストーリーになる。
連鎖は認知された時に、すでにストーリーである。
生命体が生命活動をするだけで、
人間はそこに因果を認知し、ストーリーは作られる。
ストーリーは生きる意味と勇気を生む炉となり、
ストーリーはサバイブにおける拠り所となる。

いつしか人間は、
「ストーリーを作り、信じる」という行為を行うことでしか
生きることができない生命体になってしまった。

いや、なってしまった、というよりも、
「ストーリーを作り、信じる」という行為そのものが、
人間を「人間」たらしめているのだ。


◾️人間の認知機能と因果

人間の認知機能は、主観によってしか認知できない。

例えば「とんでもなく異臭がするポット」が、知らぬ合間に自分の部屋に置かれていたとして、家に帰ってきてその異臭に気がつくとする。
その時の人間の認知はどうなるだろう。

左脳は言語で論理を紡ぐ。意味で区分したものを相対化し、その関係性による因果を作るということだ。
「異臭がする→なんだこのポットは。誰が置いたのか。自分が置いたわけではない。鍵を閉めていたのに。誰かが侵入して置いたのか。何の目的で。中身は一体なんなのか。何故。」

右脳は外部から受けた刺激に反応するとき、その感覚を感情に乗せて認知させる。感情は、人間の認知を因果の中に閉じ込めるように促す。
「異臭がする→臭い、嫌だ、違和感、不快、戸惑い、怒り、恐怖、不安、気味悪さ、悲しみ」

これらの状況は、もしストーリーを分解することが出来れば、「その異臭の刺激を受けた。それ以上でもそれ以下でもない。」というだけで終わりだ。しかし、人間はこの状況に意味を持たせ、因果づける。

「家に帰ってドアを開けた瞬間、急に異臭がした。臭い。とてつもなく嫌な匂いだ。みると、そこにはポットが置いてある。違和感。何故だ。自分が置いたはずはない。それに、鍵を閉めていたはずだ。不快。戸惑い。一体、誰が置いたのか。どうやって。怒り。何の目的で。不安。恐怖。中身は何なのか。気味が悪い。何故こんなことに。悲しみ。・・・」

人間の脳の認知機能は、因果を紡ぐようにしか出来ていない。
人間は、要素をマグネットのように因果として自動的に紐付け、それを動線として動くようにプログラミングされたロボットのような物だ。

◾️3次元とストーリーの関係性

因果に縛られている以上、我々は3次元的主観から抜け出すことができない。我々は時間というものがあたかも存在しているかのように感じており、過去には戻れず常に未来へ向かって時間が進んでいるかのように感じているが、実際には時間というものは存在せず、人間の思い込みである。一方向の時間の矢というのもあくまで人間の3次元的主観でしかなく、仮に4次元的な認知をすることが出来れば、時間軸というものは全く意味を為さなくなる。

これがどういう意味か。映像や本に例えてこれを理解したい。

[例①]ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

我々は3次元に生きている。
ここに一つの映画の.movデータがある。動画を再生し、物語世界の中に入り込み、登場人物になりきってストーリーを見進めている最中には、次の展開はわからない。
しかし、分解すると、映像2次元平面の画像の連続体であり、このフィルムデータには1枚1枚の画像情報が貼られているだけである。この画像の1枚1枚は、本来は繋がっているものではないのだが、それらを素早く連続で見ることによりあたかも繋がっているかのような錯覚によって、動画として感じている。そうして錯覚によって繋がった動画のひとまとまりが1カットになる。カットとカットは繋がってはいないのだが、繋がっているような錯覚をして1つのシーンになる。シーンとシーンは、繋がっていないのだが、繋がっているような錯覚をして1つの物語の流れを紡ぐ。

3次元に生きている我々からしてみれば、映像は1つの物語であるが、同時に分解するとただの2次元の画像が沢山積み重なった1つのフィルム(データのまとまり)であるとも言える。

我々は3次元人なので、2次元の映像は飛び飛びに見ることもできるし、過去に戻って見返すこともできるし、逆再生もできる。シークバーを動かせば、どうとでも見れる。3次元人の我々からしてみれば、2次元の過去から未来などどうとでも行き来できるし、また2次元の過去から未来の全てがデータのまとまりとして3次元の現在にある。2次元の過去から未来が3次元に同時存在している。ストーリーは所詮ストーリーであって、2次元の時間軸というのはどうでも良い錯覚である。

しかし、2次元のストーリーの中の登場人物に、実際に生きている感覚があるとすれば、この物語を一生懸命に生き、物語の最後まで本気で生きているのだろう
もっとも、3次元人からすれば本来は繋がってはいない2次元画像の羅列なので、そのストーリーが繋がっているということ自体も、2次元人の思い込みなのだが。

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違う例えで、全く同じ流れを言ってみる。

[例②]ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

我々は3次元に生きている。
ここに一つの小説がある。本を開き、物語世界の中に入り込み、登場人物になりきってページを読み進めている最中には、次の展開はわからない。
しかし、分解すると、2次元平面の中に沢山の記号があるだけだ。その記号一つ一つに意味を見出し、文字となる。その文字列の連なりに意味を見出し、単語となる。単語と単語の連なりに意味を見出し、文節となる。文節と文節の連なりに意味を見出し、文章となる。そうしてページを読み進めることでストーリーを見出す。

3次元に生きている我々からしてみれば、本は1つの物語であるが、同時に分解するとただの2次元の紙が沢山積み重なった1冊の本(データのまとまり)であるとも言える。

我々は3次元人なので、本の内容は飛び飛びに見ることもできるし、前のページを読み返すこともできるし、反対から読むこともできる。ページを捲れば、どうとでも見れる。3次元人の我々からしてみれば、2次元の過去から未来などどうとでも行き来できるし、また2次元の過去から未来の全てがデータのまとまりとして3次元の現在にある。2次元の過去から未来が3次元に同時存在している。ストーリーは所詮ストーリーであって、2次元の時間軸というのはどうでも良い錯覚である。

しかし、2次元のストーリーの中の登場人物に、実際に生きている感覚があるとすれば、この物語を一生懸命に生き、物語の最後まで本気で生きているのだろう
もっとも、3次元人からすれば本来は繋がってはいない2次元画像の羅列なので、そのストーリーが繋がっているということ自体も、2次元人の思い込みなのだが。

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さて、ここから更に、1つ次元をずらした考え方をしてみよう。

これらは、次元をずらしても同じことが言える。

[例③]ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

我々は4次元に生きている。
ここに一つの宇宙がある。宇宙の中にある地球を見てみて、物語世界の中に入り込み、登場人物になりきってこの宇宙の中で暮らしている最中には、未来は誰にもわからない。
しかし、分解すると、宇宙は3次元立体の中に沢山の情報があるだけだ。その情報一つ一つに意味を見出し、人となる。その人と人の連なりに意味を見出し、民族の歴史となる。民族と民族の連なりに意味を見出し、国の歴史となる。国と国の連なりに意味を見出し、国際社会の流れとなる。そうして生活を進めることで人類のストーリーが紡がれていく。

4次元に生きている我々からしてみれば、宇宙は1つの物語であるが、同時に分解するとただの3次元の宇宙が沢山積み重なった1冊の本(データのまとまり)であるとも言える。

我々は4次元人なので、本の内容は飛び飛びに見ることもできるし、過去のページを読み返すこともできるし、未来から過去に逆再生することもできる。ページを捲れば、どうとでも見れる。4次元人の我々からしてみれば、3次元の過去から未来などどうとでも行き来できるし、また3次元の過去から未来の全てがデータのまとまりとして4次元の現在にある。3次元の過去から未来が4次元に同時存在している。ストーリーは所詮ストーリーであって、3次元の時間軸というのはどうでも良い錯覚である。

しかし、3次元のストーリーの中の登場人物に、実際に生きている感覚があるとすれば、この物語を一生懸命に生き、物語の最後まで本気で生きているのだろう
もっとも、4次元人からすれば本来は繋がってはいない3次元立体画像の羅列なので、そのストーリーが繋がっているということ自体も、3次元人の思い込みなのだが。
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我々が感じる、時間という因果は3次元的主観だ。

「時間の矢に縛られた3次元的主観」そのものを「人間」というのだろう。

この3次元的主観が「人間」というものを構成し、
「人間」というストーリーを育ててきているのだ。


◾️次元の考え方

0次元は点。
1次元が線。
2次元は面。
3次元は立体。
4次元は超立体。・・・

次元の考え方として、「1次元増えるごとに、手前の次元から1軸無限にずらす」という言い方ができる。

0次元の点を1軸ずらして無限に足し合わせたものが1次元の線である。
1次元の線を1軸ずらして無限に足し合わせたものが2次元の面である。
2次元の面を1軸ずらして無限に足し合わせたものが3次元の立体である。
3次元の立体を1軸ずらして無限に足し合わせたものが4次元の超立体である。・・・

そして、その次元における端は、一つ手前の次元である、とも言える。

1次元の線の両端は、0次元の点である。
2次元の面の両端は、1次元の線である。
3次元の立体の両端は、2次元の面である。
4次元の超立体の両端は、3次元の立体である。・・・


次元というのは解釈であり、我々の主観としての3次元は、4次元超球の面上で起こっている出来事である。我々は、4次元の超球の面上に3次元的に住んでいる、と言える。

◾️次元の体感

「地球平面説」を唱える人々がいる。地球は球体ではなく平面であるという説だ。これを唱えている人を「フラットアーサー」という。日本にも増えてきているらしいが、アメリカでは数百万人規模の人が信じているらしい。

彼らは自らの体感に根ざした主張、ストーリーを持っている。
「体感的には、我々の住むところは平面的である。我々はこの目で地球の丸みを見たわけではない。体感として、違和感がある。地球を丸いとするのは、NASAの陰謀であり、教育による洗脳である。」

確かに、我々には地球は平面に感じられる。無限に続く平面だ。曲がっているとはにわかには思えない。

この感覚は、実はとても重要で、我々の次元感覚を紐解くヒントとなる。

フラットアーサーは、3次元の巨大な球の表面に住む、2次元的感覚のアリさんの体感と同じである。

[3次元における2次元人の体感]ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

仮にわかりやすく、地球が真っ平らの超巨大な3次元球だったとしよう。高低軸を持たないスーパー小さいアリさんは、2次元の面の中だけでしか生きられない。アリさんは、2次元的な感覚を持って生きている。
アリさんにとっては、地球のような3次元の超大きな球は、無限に広がる2次元の平面にしか感じられない。どこまで行っても端はないし、どこへまっすぐ歩いてもいずれ元の場所に戻ってくる。

我々アリさんは、超巨大な3次元の球の面上に住んでいる。我々アリさんの主観としての2次元は、3次元の超巨大な球の面上で起こっている出来事として認識される。

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フラットアーサーは、このアリさんの主観・体感を体現している。

これを次元を1次元足して考えると、4次元の巨大な超球の表面に住む、3次元的感覚の人間の体感がわかってくる。

[4次元における3次元人の体感]ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

仮にわかりやすく、宇宙が真っ平らの超巨大な4次元超球※だったとしよう。スーパー小さい人間は、3次元の立体の中だけでしか生きられない。人間は、3次元的な感覚を持って生きている。
人間にとっては、宇宙のような4次元の超大きな超球は、無限に広がる3次元の立体にしか感じられない。どこまで行っても端はないし、どこへまっすぐ歩いてもいずれ元の場所に戻ってくる。

我々人間は、超巨大な4次元の超球の面上に住んでいる。我々人間の主観としての3次元は、4次元の超巨大な球の面上で起こっている出来事として認識される。

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我々が感じる次元、3次元的主観は、
あくまで人間にとっての一つの考え方、感じ方、認知・解釈でしかない。
それはすなわち、ただのストーリーでしかない。


実際に、宇宙が4次元超球という閉じた世界であるかどうか。
現在、宇宙の曲率を観測するとほぼ0の値を取るのだが、ほぼ0というだけで、完全な0値として証明されているわけではない。我々が観測できている幅が宇宙の大きさに対して狭すぎてほぼ0値を取っているだけの可能性がある。そして、曲率がほんの少しでも正の方向に曲がっている場合、閉じた宇宙である可能性もある。宇宙がほぼ無限に近い大きさの有限の閉じた宇宙である可能性もある。
あるいは実際に0値の平坦な宇宙だったとしても、トーラス体であれば閉じた宇宙となる。宇宙は4次元超トーラス体である可能性もある。
(曲率がマイナスの、開いた鞍型の宇宙の場合が、一番やばい。もう全体感など想像はできない。逆に言えばこの宇宙の場合、ストーリーなどは最初から破綻している、とも言える。)

◾️ストーリーの解体 / 無我、空

人間にとって、ストーリーは解体できるものではない。
それは自らの認知機能により運命付けられている。

しかし同時に、人間にとって、ストーリーは解体できるものである。

これはどういうことだろうか。

ーー

そもそもストーリーには、人間の自覚的(意識的)な認知はそこまで関係ない。

「私が見ていなくても,月はそこにあるはずだ」

アインシュタインが人間の直感的な観念と食い違う量子物理学に対して懐疑を述べた言葉である。量子の世界では、存在というものがあやふやで不確かなものであり、全て確率でしか記述することができない。それらが観測された瞬間に確率が確定し、存在として表面化する。それに対して、アインシュタインは疑問を投げかけているのだ。「神はサイコロを振らない。」と。

しかしながら、現在では量子のミクロ世界における「実在性の破れ(不在)」が分かり、顕微鏡でギリギリ観測できるようなマクロ世界においても「実在性の破れ」が観測されるようになってきた。

https://journal.ntt.co.jp/backnumber2/1705/files/jn20170520.pdf

(巨視的スケールでの実在性の破れを実証 / NTT物性科学研究所)

「誰も見ていない月は存在しない。月は人が見たときはじめて存在する。」

我々の世界は、我々が思い込む以前に、こういう世界だった。

実際には、月は我々の住む世界のあらゆるところに相互作用を持っており、影響をお互いに与えているので、月自体を見上げて観測していなくとも、間接的に我々は月の影響をあらゆるところで観測している。我々のうち、昼間に月が観測できない人が数十億人いたとしても、たった一人程度が月を見上げていなかったとしても、月は相互作用し続け、存在している。

月だけではなく、この宇宙の全ては情報として、エネルギーの波動として、相互関係しあっているのだから、人間の認知が及ばなくとも、そこにはストーリーがすでにあるということである。人間が認知機能を持って活動するはるか前からこの相互作用は始まっているわけである。

しかし、量子というのは元々存在は確率でしか表すことができない、全てにおいて重ね合わせの状態にある。これらは観測(=相互作用)された段階にのみ確立が収束し、実在として収まるわけであるが、人間が観測した瞬間に確定する部分もあるわけである。

誰かが認知をしなければ、存在は常にあやふやで、重ね合わせで、確立的である。
我々が認知で因果を紡ぐ前から、それでもずっと相互作用があるのであれば、それは我々以外の誰かの認知である。それを神と呼ぶのかもしれない。

この仮想現実をプログラミングしているのは、4次元人の小学生かもしれない。4次元人の小学生の夏休みの工作で作った宇宙かもしれない。

しかしながら、そんな神がストーリーを作っていようが、我々はストーリーを解体することができる。

全ては思い込みであるとするならば、
同時に、思い込み方を変えれば、ストーリーは解体できるのである。

「存在と因果は我々の思い込みだ」と自覚してしまえばいいだけなのだから。

このストーリーの解体をする考え方を、仏教では無我、空といい、
ストーリーとの付き合い方を、タオイズムでは道という。

仏教の無我、空の概念を、量子力学が科学的に解き明かし始めている。
客観的な実在がないわけである。

「悟る」とか、「目覚める」とか表現することは、
”世の中に隠されたストーリーを発見する”とか、”4次元以上の高次元にステップアップする”とか、”4次元人になる!”とか、そういうことではないと私は思う。

私は、
「悟り」は脳のシナプスの結合の発火が強い時の現象のように思うし、
「目覚める」とは(あんまりよくわからんけど、あえて言うなら)、次元というものの解釈と想像と共に、ストーリーを解体し、文字通り夢から覚めることが「目覚める」ということなのではないかと思う。ちなみに、悟ったり、目覚めた後でも、この世界は、特段いつもと変わらないだろう。十牛図の感覚である。

そして、我々が住む世界は、胡蝶の夢であり、仮想現実であるというのも変わらないだろう。

ちなみに「意識や心」もただの幻想を作り出すブースター装置であり、
この装置もまた、存在しない。面白いものである。

芸術、現代美術もストーリーの解体や再構築をするのに有用な表現である。


◾️ストーリーとの付き合い方 / 道

映画[窓]MADOで描こうとしたテーマでもあるのだが、私はストーリーを信じることのパワーは偉大であると同時に、また危険であると認識している。取り扱い注意ということである。ストーリーとは上手く付き合う必要がある。ストーリーを本気で生きる、と同時に、ストーリーを突き放し、俯瞰しなければならない。この矛盾する両概念を、常に同時にしなければならない。そうしなければ、ストーリーを100%妄信することによって結果自分自身が足元を掬われ、自身のサバイブにおいて自ら生存確率を下げる行為につながる可能性があるからだ。
ストーリーを作り出しているのは自分たちであると認識した上で、
常にストーリーと付き合わねばならない。

私が映画制作者として常に根底に考えているのは、
ある意味ではストーリーの解体である。
映像の作り手として、ストーリーを愛しつつも、依存してはならない。ストーリーを生むのは、時間の矢に囚われた人間が紡ぐ因果であり、因果による感情だ。ストーリーを生む際には、それら全て(時間・因果・感情)は「人間」が生み出す主観、思い込み、錯覚、妄想の産物であると自覚し、付き合わなくてなくてはならない。

タオイズムでは、「道」という概念を用いて、サバイブしていく上でのこの問題との付き合い方を教えている。

わかりやすく言えば
Let it be,
Let it go,
Be water, my friend.
ケ・セラ・セラ
これでいいのだ
ありのまま

である。

そしてもっと言えば、上手く付き合わなくてはならないのは、
「人間」という概念そのものであると言える。

「人間」そのものがまた、
「ストーリーの思い込みによる産物」であるからだ。


◾️人間とストーリーによる掛け違い

全てのストーリーは、作られたものである。

ストーリーが先にあるわけではない。
人間が生み出した認識がストーリーである。
しかしながら、ストーリーがまた人間を生み出している。

果たして人間は、ストーリーのために生きているのか。
また、ストーリーが、人間そのものなのか。

そうであるならば、
ストーリーは各々の視点によって変わるのだから、
人間の本質は、各々がただの主観によるみんな違う思い込みのストーリーの夢の中で生きているだけのはずである。我々はお互いのリンゴの赤さを認知し得ないのだから。

しかしここに、掛け違いが発生する。

なぜか、本来は分断されているはずの認知 / 主観というものが、同じストーリーを共有できているかのように錯覚をし、部族、民族、社会、国、宗派、人間、というまとまりを作っていくのだ。
本来は皆てんでバラバラの主観の中で生きているはずが、あるストーリーによって、共鳴し、ストーリーのマグネットによってまとまりができてしまう。ストーリーによる理想・クオリアを求め、集合的無意識のようなものが、ムクドリの群れのようにまとまり、蠢いて何処かへ行く。
どこへ行くかは分からないのに、どこかへ行こうと思い込み、どこかへ行けるのだと思い込んで。

この共有するストーリーのマグネットを、"シンパシー(共感)"と呼ぶ。

「わかるわかる」「そうだよね」「あるある」

人間は共感が好きである。
なぜなら、本来は分断されているものが、一つにまとまる錯覚が生まれるからである。繋がりを持つ喜びを感じ、集団を形成することでパワーと安寧を得るのだ。

しかし、この共有するストーリーのマグネット="シンパシー(共感)"が、人間同士が前提的にさも分かり合えているかのような錯覚を起こさせ、それが真の分断に気付けなくさせる。

「みんな分かり合えるはずじゃん」

という感覚である。
この感覚は、裏返すと、

「なんで分かってくれないの?」

という感覚になっていく。
そしてその感覚は、

「分かれよ!!」

と、同じストーリーを持たない他者への不快と嫌悪をもたらし、自分たちのストーリーを他者へ強制しようとさせる。他者は変えられるものではないのに、他者を変えようとし、それが出来ないのを知ってさらに悶え苦しむ。
本来は「元々分断されている世界の中で繋がれているかもしれないという一縷の願い、喜び」のはずが、
ひっくり返って、繋がっている前提になってしまい、繋がっていないことに対する忌避感情を強く示すのだ。

そうすると、この掛け違いに気付けず嵌まり込むこととなり、ますます自分たちの物語に入り込んでしまうこととなる。

一度自分たちの物語世界に入り込んでしまうと、今度は他の物語世界に入れなくなってしまう。他の物語世界を拒否してしまう。自らのストーリーに囚われ、凝り固まり、そこから出ることができなくなってしまう。

そうした凝り固まったストーリーを共有する集団は「石」のようになる。こういったストーリーを持った集団同士が隣人同士にいると、ストーリーとストーリーは、対立構造になっていく。石と石がぶつかり合うようなものになってしまう。相手のストーリーなど想像できなくなってしまう。石は、固いが、脆い。割れたら元には戻れない。砂になるまでぶつかり合うしかなくなる。

シンパシーは、こうやってまとまりを作る一方で、エンパシーを阻害する

エンパシーとは、シンパシーと対になる概念で、「自分の信じるストーリーとは異なるストーリーを持つ他者に対し、他者のストーリーを想像する力」のこと。
「あるある」でまとまるのではなく、「知らない、怖い」ものに対して、拒絶せず、歩み寄り、想像しようとする姿勢である。

我々は、知らないものを不安に思い、拒否する姿勢をとることが多い。
知らないストーリーの他者を阻害し、同じストーリーを共有するシンパシーの輪の中で安寧を図ろうとする。それが違うストーリーのもの同士の対立構造になっていく。

しかし、本来は、我々はお互いのリンゴの赤さを認知し得ないのだから、我々は分かり合えないという前提にまず立つ必要がある。その上で、自分が理解できないストーリーを、相手のストーリーをお互いに想い遣る、エンパシーによってのみ相互共存を図ることができる。

エンパシーは、相手のストーリーを自分に取り込む行為である。柔らかで、繋がる行為である。シンパシーが硬い「石」となる行為なら、エンパシーは柔らかい「竹」や、さらには究極に柔らかい「水」となる行為であると言える。

水は、タオイズムでも重視する概念だ。
ブルース・リーがBe water, my friend.と言ったように、
強さを求めるときに柔らかい方が強い、という概念があり、岩よりは竹の方がしなやかで強く、水は、究極に柔らかく、そこには勝つも負けるも強いも弱いも存在しない。全てのストーリーを繋ぎ、全てを柔らかなグラデーションの繋がりの中に置く。

人類が狩猟採集生活を送っていた時は、こうした隣人問題はあまり問題にならなかった。なぜなら、問題になれば物理的な距離を取ることで問題ではなくなったからだ。
しかし、農業をはじめ、土地を所有し、定住生活をするようになってからこの隣人問題が始まった。自分たちの権利を主張し、領土の概念が生まれ、土地を収める領主・国の概念ができ、領主と民と奴隷ができ、格差が生まれ、戦争に発展するようになった。
人類がここまで世界中に繁栄し、近代技術によって我々の距離は物理的にも精神的にもどんどんと縮まっており、距離を取ることが難しい世の中となっている。

我々が狭い地球に定住生活をする上で、狭い地球の隣人問題に対して、
相互理解、相互共存をする為には、シンパシーではなく、エンパシーが重要なのだ。岩のような他者のストーリーを解体し、水にして自分のストーリーに取り込み、物理的な距離ではなく、心で距離を作るのだ。


我々が人間同士で情報を交換するのは、巨大な脳のニューロンを形成しているのと同じことだ。であれば、本来は繋がっていけば行くほど強大なネットワークを通じてより強い脳になるはずである。それは人類にとっても有益なはずであり、石をぶつけ合って消耗し続けることは不毛なはずである。

さらに、ストーリーのシンパシーによってひとまとまりになっている石の集団は、それすらも、それ自体、本来は錯覚なのだから、その勘違いはその集団の中でも新たな対立を生んでいく可能性がある。

シンパシーによるまとまりは、偉大なパワーでありまた危険である。注意深く運用しなければならない。

そしてこのストーリーの思い込み、かけ違い、勘違い、錯覚の中で生きているのはパラノイアだけではない。全ての「人間」がそうなのである。



◾️最難関の問題に対して

序文の問題に戻るが、

イスラエル・パレスチナ問題という、イスラエル建国からは70年以上続く問題、そして数千年続くユダヤのストーリーから端を発する問題は、第三次世界大戦のストーリーにも繋がりうる。
一つの筋書きとして考えられるのは、イスラエルパレスチナ問題から解釈が拡がり、イスラエル・ユダヤを支援する欧米諸国VSイスラム・ナショナリズムでひとつになったアラブ諸国という対立関係にまとまりを変え表面化する流れだろう。
あるいはイスラエルパレスチナ問題が仮に解決するとするなら、例えばユダヤとアラブがイギリス欧州米国に対してヘイトを向けることで団結をし、中東VS欧米という構図を取るというストーリーかもしれない。あるいは、隕石の襲来か地球規模の未曾有の天災か。いずれにせよ新たな敵、新たな問題、団結せざるを得ないような新たなストーリーがない限り、この問題は止まらない。このストーリーの問題が止まるということは、別の新たなストーリーの問題が生まれるということである。

これは、単なるオイルマネー利権や宗教対立どうこうというだけの問題ではない。

全てをひっくるめた、「人間」というストーリーの問題なのだ。

この問題は、「人間」が持つ根源的問題なのだ。
だから根深いどころか、「人間」そのものの問題なのだ。

我々が「人間」というものを賛歌するのなら、この問題は決して解決しないだろう。
我々がもし「人間」というものを手放せられたなら、この問題は問題ではなくなるだろう。


我々は、この世界の物語を本気で生きている。
それは決して馬鹿にすることではない。
一生懸命に、必死にもがいて、血みどろで、本気で、生きている。

しかし、その上で、これはストーリーであると、俯瞰し認識する。
この矛盾する両概念を、同時に認識し、運用しなければならない。


ストーリーとは、

私、そのもの。
私が、何者であるか。
私たちが、何者であるか。
親は、先祖は何者であるか。
私たちがどういう環境、土地とともに生きているか。
そこで連綿と続く日常。生活。
そこで生まれる感情。
暮らしの中での人間関係、仕事、役割。
私は何人だ、という認識。
民族。国。社会というまとまり。
その暮らしと共に根ざす思想。哲学。宗教。信仰。
それらが生み出す歴史。
ヒストリーというストーリー。
アイデンティティ。
全ての連綿たる繋がり。関係性。連鎖。因果。
全てを繋がりとして、因果に繋ぐ、
人間、そのもの。
言葉、そのもの。
意識、そのもの。
意味、そのもの。
存在、そのもの。

これらは、全て幻想であり、思い込みであり、錯覚である。


子たちよ、我らは、ストーリーに飲まれ過ぎている。

しかし、子たちよ、あなたたちのストーリーは、
まだ始まったばかりである。
飲まれるかどうかは、あなたたち次第である。

あなたは、何者であるか。
先人から教えられたことがあなたの全てを形成するわけではない。
ストーリーを決め、新たにストーリーを産み出すのは、あなたたちだ。

あなたは、何者でもない。
あなたなどない。
私などない。

実在もない。
何もない。

ただの情報である。



======

◾️最後に

私は昔から鈍感で、
物語に対する気持ちが薄い。

そんな人間が映像監督をやっているのだから、
私にとってこれは勉強のようなものである。

そんな物語に対する気持ちが薄い私だが、
ゲームオブスローンズというドラマはとても好きだった。
ドラマのラストでティリオンというキャラクターが言ったセリフが心に楔として打ち込まれ、残っている。

『民を団結させる物はなんだろうか?それはストーリー(物語)だ。この世でストーリーほど強力なものはない。誰にも止められない。敵に敗れることもない。』

古来より、何億もの人々の蠢き、
生命体活動の情報は顕在化されず、痕跡と口伝だけが残った。
人はストーリーを紡いだ。
ストーリーが、自分たちを形作った。
ストーリーによって、人は、人となった。

そして余談であり、ふと思ったことだが、

イスラエルは、楔の形をしている。
欧州から地中海に向けて打ち込まれたような楔。アラブを分断する形。
この地政学的な見立てが、この問題をややこしくしている要因の1つでもあるかもしれない。

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