見出し画像

今年もサンタへ手紙を書く

毎年12月に入ると、一年の締めくくりの月ということもあり、世も人もあわただしくなりますが、子供たちも例外ではありません。

我が家の場合は、毎年11月に入ると、子供が手紙を書き始めます。

「サンタさんへ」。

前年のクリスマスが終わってから、どうしても欲しくて欲しくて仕方がない物がでてくると、「これこれ、こういうものがほしいんだよね」と、日々の生活の中で、買ってもらえないことは分かっているのに、私の顔色を伺いながらもらしてきます。そんな子供を横目で見ながら、

「今年もまた、この時期がやってきたか、、、」

と、一年に一度必ずやってくる、楽しくも、心中穏やかでなくなる時を迎えるのです。

心穏やかでなくなるとはいえ、私自身もサンタクロースを信じてやまなかった時期があったのは確か。我が子の気持ちは痛いほど分かる。だから、その願いが叶うようにと、心から祈るのです。

「祈る?」、どういうこと?と思われるかもしれませんが、子供があまりにも非現実的な願い事をした時、私はつい「祈って」しまいます。

「サンタクロースさん、どうか我が子の願いを叶えてください」。

そして、どうか我が子が、ほんの少しだけ現実的な願いにシフトチェンジしてくれるようにと、少しずつ少しずつアドバイスを耳元でささやき始めます。

「アドバイス?」

そう、もう少し願いが叶いやすくなるように、サンタ(=私)がその願うものを探し出しやすく(購入しやすく)なるように。

我が子は、サンタへの手紙をお気に入りの便せんに書いて、冷蔵庫にマグネットで張り付けておきます。そして、それを我が子に気付かれないように、家事をしながら、しっかりと読み取る訳です。

「なるほど、この間買い物に行った時に、あのお店で気に入ったと言っていたものだから、今年は手こずらずに準備できそう。」「うん?これ、ものすごく細かすぎて、しかもこんなにたくさん無理!」などなど、毎年、サンタ(=私)の心は揺れ動くのです。

「無理!」な時は、こう「アドバイス」したものです。

「サンタさんへの手紙、細かすぎて、読めないよ。もう少し、大きな字で書いたら。」

「えっ?大丈夫だよ。サンタさんは読めなくても、分かるから!」

(いやいや、読めないと、サンタ(=私)は持って来れないんだぞ~)と心の中で叫びながら。

「それにさあ、細かすぎて、多すぎない?サンタさん、分からないよ、こんなに細かいと!」。とにかく、サンタ(=私)は必死です。我が家の台所事情を思えばこそです。

すると、我が子は、少し考えると自分の部屋へ行き、新たな便せんとペンを取り出し、スラスラスラスラと手紙を書き始めたのです。

我が子は2分の1の成人式を迎えても、サンタクロースの存在を信じてやみません。「サンタクロースはいるもん!だって、お願いしたもの持ってきてくれたもん!」と。私の目を見て、何回何十回と聞いても、同じように答えてきます。疑う様子は微塵もありません。

「でも、生きた犬は持って来てくれなかったけど。」

「生きた犬?」そうです、「生きた犬」です。

動物が好きだった我が子は、普段、犬のぬいぐるみといつも一緒にいました。3歳頃までは、動かない、ぬいぐるみの犬でぜんぜん満足して遊んでいましたが、幼稚園に入った4~5歳頃になると、動く生きた犬に興味を持つようになりました。そして、その思いが強くなり願望となり、口から出た言葉が、「生きた犬」だった訳です。

「生きた犬」をサンタ(=私)が持って来なかった時、私は我が子にこう言って説明したのを覚えています。

「生きた犬を連れてくるって大変だよ。だって、サンタさんってすっごく遠い所から来るんだよ。うちに来るだけじゃなくて、他のお友達の家にもプレゼントを持って行くんだから、生きた犬がいたら大変だよ。生きた犬なんだから、おしっこだってうんちだってするよ。そりに乗ってる時に、犬さんがおしっこ、うんちしたらどうする?サンタさん、プレゼント持って来るの遅くなっちゃうよ。もしかすると、持って来れなくなるかもよ、、、だから、サンタさん、生きた犬をプレゼントするのはできないと思ったんだんだね、きっと。ごねんねって、思ってると思うよ」と。子供が想像しやすい身近な話と結び付けて、もっともらしい内容にまとめあげて、どうにかこうにか納得してもらおうとしましたね。

それを聞いた我が子は、「仕方がないんだ」と思ったのか、その後、だたをこねるようなこともなく、生きた犬の代わりに「これこれが欲しい」というようなこともなく、普段通りの態度であったように思います。

多分、この年は、サンタ(=私)がクリスマスプレゼント自体を用意できなかったように思います。間に合わすことができなかったのです。我が子の願いが「生きた犬」でなかったとしても。

この年は、「生きた犬」という、その時の我が家の環境では、非現実的な願いであったことも功を奏しまた。クリスマスの翌日に、日ごろ我が子が興味を示していたなと思われるものを慌てて用意して、布団の上にそーっと置いて、なんとか「一日遅れのクリスマスプレゼント」として送ることができたましたから。

「一日遅れのクリスマスプレゼント」に我が子は、プレゼントが来たということへの喜びはあったようでしたが、プレゼント自体には、いまいちの表情を浮かべていたのを、かすかに覚えています。忘れかけていますが、完全には消え去らないあの表情を、、、。

今年も例外なく、その時期がやって来ました。

今年は、今までで最強の非現実的な願い事です。11月よりも随分前から、横でつぶやいていましたから、重々承知しています。耳が痛い、耳に胼胝ができるわ!何回思ったことでしょう。

サンタさんへの手紙も、例年通り冷蔵庫に張り付けてあります。サンタ(=私)ももちろん目を通しています。その文面から「必死さ」が伝わってきました。なぜなら、今年は、「願い事」+「誓約」が書かれていたからです。

「サンタさんへ。今年は○○○○を持って来てほしいです。○○の練習もします。時間を決めてやります。だから、お願いします。○○より」。

目の前に、にんじんをぶら下げられた馬のように、我が子は、願い事を手にするために、一生懸命に知恵を絞り、苦手なことを自分に課しました。

その手紙の内容に、驚きはしましたが、我が子の成長っぷりをも見た気がしました。

さあて、今までで最強の非現実的なこの願い事を、果たして、サンタ(=私)は、どのように叶えていくのか、自問自答。いや、自問自答はしません。これは、私にとっては一種の綱渡りになりかねないわけで、よくよく考えてから行動に移す必要がありますので。

すると、そんな時、子供の父親の兄弟から、「クリスマスプレゼントのお伺い」メールが届いたのです。「お願いしちゃおうか。」と非現実的な願い事を、兄弟に委ねてしまおうかという、親としての責任放棄を選択しようというちゃっかりした考えが浮かびました。父親にそれを伝えると、「俺がプレゼントするよ」と、あっさり。

誕生日とクリスマスとお正月分ということで、その非現実的な願い事を叶えましょうということになったのです。

初めからそうしてもらえばよかった、、、。

このことを我が子に話すと、一瞬驚いた表情になりましたが、その後は満面の笑みが広がり、歓喜の声がしばらく続いていました。本当に嬉しい時の目の輝きは、それを目にした人、モノの魂を揺さぶります。我が子の笑顔は宝です。

非現実的な願い事が現実化するという確約を手にした我が子は、喜びの感情に飲まれ切ることなく、ある行動を起こしていきます。

「サンタさんへ」

そうです。サンタクロースへ再び手紙を書き始めたのです。

「今年はやっぱり大丈夫です。○○○○は持ってこないでください。でも、これからも○○の練習はやります。今年もありがとうございました。来年もよい年を。」

驚きです。サンタクロースに願い事の断りを入れたのです。本当にサンタクロースを信じてるんだなと思いました。完敗です。いいですよ、いつまでも信じていてください。そんな気持ちにもなりました。

でも、お気づきですか。この断りの手紙にも、我が子は苦手なことを自分自身に課していたことを。

今年のクリスマスは、サンタ(=私)の出番はなくなりましたが、我が子の成長を二度も目の当たりにすることができたことが、私にとってのクリスマスプレゼントになりました。

来年は、サンタ(=私)の出番は、果たして、あるのか、ないのか、、、。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?