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生成AIが演繹的だとしたら、日記はアブダクション的である

AIと人間の関係について、よく目に触れるものとは少し違う目線で考えてみたい。
いわゆる「AIが人間に優る」のは、例えば「読み込める情報の膨大さ、情報処理能力」、「ある問いに対して、一般化されたルールに沿ってレスする能力の高さ」といった点で、後者は特に「演繹法」的に優れていると言える。

一方で、些細な事実から抽象化して新たな仮説を導き出すといった「アブダクション」的思考は、人間の方がよくできるのではないだろうか。
プロンプトをうまく書けば、これまたAIが膨大な仮説を提示してくれるかもしれないが、事実との間のストーリーとしての整合性に手触り感を与えるという意味での腑に落ち感は、やはり人間の方ではないかと思う。
日記を続けることで、連続性を伴った自分を知ることができる。AIにはそれができない。「連続性を伴う」ということは、自分という軸が、一日という「区切り」をつけながら日々を過ごすことで、外世界の変化に対する自身の観察ができるから。自分は存在し、なくなってはいない。でもAIはきっとスレッドが変わると別の世界線で何事もなかったように自分をリセットする。

連続性のある生。そこにストーリーが生まれる。

一日の出来事の中での省察=ミクロの延長に、長期単位で綴ってきた日常の中での自分の変化=マクロが出来あがる。ミクロを深く丹念に入り込み、それを積み重ねた結果としてマクロ目線で見えてくるものがある。両者が際立ってくる。そんな感覚が得られる。
日記を読むことで、筆者の変化や成長を、手にとるようにありありとつかむことができる。そうして人の生き様を体感する。

私は人の日記を読むのが好きだが、日記にも、日常の積み上げ(帰納法)的な内容と、そこから抽象化して一定の仮説を意識した考察を加えているもの(アブダクション)が存在していると思う。

エッセイは、日記から抽出された省察のエッセンスであるが、日記はこの日常の積み上げと考察が、まさに一日1日という体感スピードの中で物語として共存し、織り込まれ、このときに日記しかない煌めきを発揮する。


これに沿うと、日記は人には書けても、AIには書けない(書けたとしても人が読みたいと思えるものではない)だろう。

理由は、
①日記は、些細な日常から考察や抽象化を育むプロセスが可視化されていることに醍醐味があること
②その中には日常の機微やエラーなど、人間の手触り感が感じられること
日記が個人の一日という有限性において成立するものであり、生成AIのようにある種のメタ的性質を持つものが書くものとは想定されない
(もちろん、昔の文豪等をキャラ設定して、架空の日記を書かせることは技術上できるだろうし、そうした創作物が出てくる可能性もある。が読む側としては、ヒトとしての固有性・有限性を持った生身の人物が、今を生き、日々を書くことに、より興味を持つようになるのではないか。)


生成AI時代に残る、人の手による創作物は日記ではないかと思う。書き手が自分に問い、また読み手が自らに問い、自分ごとを広げていく。
SF的だが、記録媒体としての文字がいつか音声になり、やがてデジタル信号になっていったとしても、ある人の一日や考察を記録として残す営みは、人間に残されるフロンティアではないだろうか。

これを確かめるため、これまで世界で著されてきた代表的な日記の数々について、Noteで触れていきたい。


演繹法、アブダクションについてはこちらの記事も参考にさせていただいた。

https://logmi.jp/business/articles/320246



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