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「世の中、汚ねーなー」


ヤフコメに「トー横キッズと気が合いそう」という書き込みがあったので、行って来たなう。

雨天もあって、残念ながらトー横キッズとは遊べなかったけれど、そこそこ満喫旅が出来た気がする。

「東京は降りる駅によって人が全然違う」

前々から思っていたことだけれど、今回がそれを一番実感した。

関わり方や距離の詰め方、「人それぞれ」はもちろんあるけれど、地域性が間違いなく有るなぁ…と。
住んでいるからそう成るのか、そういう人だからそこに住んだのか、不思議である。

歌舞伎町で働いている人は、良くも悪くも「後ろ盾の無い」人生を感じた。

だからこそ、自分のミスを他人のせいにすることなく受け止めるし、目の前に在る事柄を大切にする。
ある意味、素直で付き合い易かった。

反面、その場限りで動いているから、片付けや掃除といった「次に使う人(目に見えない誰か)」の存在には鈍感に見えた。

人生観というか、思考が基本的にショートランなのだろうな。
距離を詰めるのも早いし、「今の満足」に貪欲だ。

対して、港区やタワマン系の所謂「成功者」は、その辺りが上手いと思った。
居ないところで褒められる自分づくり、その重要性を知ってる。

「待つ余裕」を持っている、部屋の広さは心の広さですねぇ。

どの道を選ぼうが本人の自由だし、そこをどうこう言うつもりは毛頭無いが、あくまでも「選ぶ」ものであって欲しいとは思った。

選択肢すら与えられず、苦悩の内に其処へ住まう者が在るのであれば、選択権の存在を気付かせたい。

そうして、自分に合った「よろこび」へと導いてゆく。
それが宗教者の役割でもあるのだろう。

もっともっと、見識を広げ、人に出遇い、心に触れながら、学びたい。

人の愚かさを「醜い」と捉えた上で、それでも受け入れることが、宗教の説く仁愛で、親鸞の言う慈悲なのだろう。

だったら、先ずは自分が実践しなきゃな。

クソみたいな世の中を綺麗事で歪めることなく、真っ直ぐに見つめてゆきたい。

「社会クソだなー、世の中汚ねーなー、でも大好きなんだよなァ。」って、言いながら生きれたら幸せね。


トー横リベンジするぞー。


ありがとう、だいすき。