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trayo 'dhvna 2


お晩で御座います。

今日も今日とてBallantine'sさんを引掛け、ふわふわしてる私です。

ほうじ茶割がすこぶる美味しい。


さて、前回の続きですね。

自己紹介と称し持論を展開していたわけですが、その内容はー…前回をお読みください。

あらすじを書くと、それだけで半分くらい埋まるということを学んだ私です。

画面をぺってスワイプするだけなので、いってらっしゃい。

私もなに書いたか忘れたので読み直しです、いってきます。




『日本人にとっての他者』


で、終わってましたね。確か。

「これを深めると面白いんだ~」って言って終わったと思います。

ので、深めましょう。


そもそも『他者』とは。


これを説明するには、『自己』が必要になります。

『自己』とは何かって言いますと、「私の内」にあり、私を動かすモノ。

「自我」とか「意識」って呼ばれてるやつですね。

対して『他者』は、「私の外」にあるが、私を動かすモノ。

ここではそう定義します。


それはつまりどういうことかって言うと、『お天道様が見てる』ってやつです。

「○○さんにこう言われた」とか「○○では××と決まっている」じゃない、なんとなく、『こうしたほうが良いかな』という気持ちが湧き出る感覚。

全ての物に命が宿るという神道の『八百万の神』なんて概念はまさにその通りで、上手いことやりよったなぁって感じです。

何が上手いかって言うと、「本人の意思からそう思わせている」ところです。


『神かもしれない』『見られているかもしれない』


自分で考え想像させる、「かもしれない運転」をさせるんですよ。

これはねぇ、上手いよ~。

自分で選択肢から思いつかせた上で選ばせてるわけだから、本人は何の不満も持たない。

でも「他者」という存在を意識させた上での、ある程度制限をかけた選択肢でもあるわけだから、個人の判断を持たせても社会という集団は上手く回る。

やりよるわ。


こういう日本人の国民性は、先ほども出た『神道』という宗教が基盤にあるわけです。

あるわけなんですが、この『神道』ってやつがねぇ、厄介なんですよ。

先ず、発祥・創始者は不明。教典も無し。

いつ、どうやってできたか全くわかんない。

わかんないけど、気付いたら其処に在ったっていうブラックボックスな宗教です。

だからまあ、神秘的と言えば聞こえは良いのだけれど、この方々についてはよくわかんないんです。

わかんないんですけど、知ってることから頑張って話しましょう。


何故なら『仏教と神道は無関係じゃない』のです。


先ず、『お寺と神社って何が違うんですか?』というところから入りましょう。

それはね、ずばり「役割が違う」のです。

そもそも奈良時代に仏教が伝来して以降、お寺と神社は「神仏習合」といって共に在ったんです。

それは何故かって言うと、『神社』は「神を奉る」場所・『お寺』は「修行する道場」という役割分担をしていたから。

『神社=お手本』『お寺=稽古場』とイメージしてみるとわかりやすいですかね。

神主さんの衣は華やかなのにお坊さんの衣は真っ黒というのも「神に仕える者」と「修行者」という立場の違いによるものなんです。


だから仏教と神道のいうことは基本的に近いと私は思ってて、神道の徳目とする『浄明正直(浄く明るく正しく直く)』なんかも仏教の言わんとする教えとそう違わないんじゃないかな。

ただ初めに言ったように神道には教典というものが無くてですね、その大切な教えもわかりづらいんですよ。

なので、それを細分化し、伝わりやすく言語化するということも仏教の役割としてあったのかも知れません。

なんて、想像すると楽しい。


ただ、その言語というものに対しても日本人は結構良い観念を持っていましてね。

前回の記事でもチラッと触れましたが、日本語って独特なんですよ。

アメリカの国務省が定めた『外国語習得難易度ランキング』で堂々1位に輝いたなんて話も聞きます。

その特徴をいくつかここで取り上げるとするならば、それは『語彙数』『主語が無い』ことでしょう。

『語彙数』に関しては古文なんかを読むとわかるように、情景描写がすこぶる繊細なんですよね。

現代人の用いる言葉では表現しきれないような細やかさで描かれていて、先人の感性の豊かさには惚れ惚れしちゃいます。

そして前回も触れた『主語が無い』こと。

慣れない人間からすると曖昧とも取れる文章、つまり直接的ではない話し方が特徴として挙げられます。

京都人の気質を表す冗談としてよく使われる『ぶぶ漬け食べなはれ(早よ帰れ)』なんか、まさにそうですね。


こうした独特の進化を遂げた日本語、その要因の一つとして『言霊』信仰が挙げられます。

『言霊』とは、「声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を及ぼす」という概念で、結婚式の「忌み言葉」なんかはその名残と言えるでしょう。

これは全く正しい思想だと思っていて、何故なら人間が人間に対するアプローチで一番重要なものは『言葉』だからです。

関係の深度に関わらず扱うものだし、連絡手段が乏しく識字率の低い昔であれば尚のこと。

『言葉』の持つ影響力は絶大なものだったでしょう。

だからこそ、言語に対する意識を高めた。

誤った伝わり方をせぬよう情景を正しく捉える感性を磨き、鋭い内容でも相手を傷つけず、無用な諍いを避ける為の柔らかな伝え方を学んだ。

美しい文化だと思います。


そしてそれは美しいだけでなくちゃんとメリットが有るんです。

民衆が『言葉の重みを知っている』ということは、社会を形成する上でとても都合が良い。

歯車同士が上手く噛み合うってことですからね。


そんな歴史的背景を見ていると、やっぱり宗教の及ぼす力っていうのは大きいなぁと私は感じちゃいます。

特に、日本の、この、『他者』の存在を意識出来る環境ね。

「○○に××を伝える」という一方通行的な他者観ではなく、回り回って自分に帰ってくるところまで知ったうえでの『自分事』の他者観。

人間相手ではピンと来ないかもしれないけれど、神仏に対する他者観を見ればわかりやすいと思います。

境内の掃除やお参り等、事実だけを見れば一方的な奉仕ですが、本人の意識としては「守って欲しい」「願いを叶えて欲しい」のような『自分の為』の奉仕ですよね。


それです。

「情けは人の為ならず」精神

回り回って私が優しくされる為に人へかける情け


『実体の無い他者』

目の前の誰かではなく、回り回っていつか私に影響を及ぼす想像の存在。

つまり、私の『身の内の他者』。


要するに『想像力』なんだけど。

先を予測して、可能性を意識して、常に頭と感覚を研ぎ澄ませる生き方ね。

「八百万の神」や「言霊」といった宗教によって磨かれたその能力を有するが故に、日本人は繊細な感性を育み、社会や文化を造ってきたのだろうと。

それが、日本人としての環境の作り方だったのでしょう。


だけど前回話したように、欧米文化の流入によってその観念が薄れてきちゃったような気がするんです。

でもそれは、新しい文化を取り入れることが悪いと言いたいわけじゃなくて。

『折角良いものを持ってるんだから、それも大切にしようよ』

そんな気持ちなんです。


それはつまりどういうこと?っていうと、私の考えはね。

来週は、その辺りのお話をしましょう。




今回はまた、めちゃんこ長くなっちゃったなぁ。

毎度ごめんなさいね。

ここまで読んでくれて、ありがとー。







ありがとう、だいすき。