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側頭部をドリルで穴開けられた話

 5月中旬、バイト帰りの夜。激しい頭痛と吐き気に襲われ、その場で歩くこともできずにいた。何かがおかしいと思い、翌日すぐに近くの脳神経外科に赴き、MRIで精密な検査を受けたところ脳動静脈奇形だと診断された。「薬で治るんですか?」と聞くと、そのお医者さんは「今すぐにでも入院しなきゃいけないものですよ。」と真剣な顔で俺に言った。どうやら脳の血管の一部が絡まり合い、直径32mmのボール状になっていたようだ。このまま放っておくと頭痛どころかクモ膜下出血が起こる可能性もあるんだとか。唐突過ぎて話のほとんどが頭に入らなかったような気がする。「癌の早期発見ができました」とかそれに近い感じのやつかな。といったような解釈だけして、とりあえず頂いた痛み止めを飲んで、脳の白黒になった写真を家に持ち帰って誰もいないリビングのテーブルに置いた。そして自室に戻り、タバコを全てゴミ箱に捨てた。まだ1本しか吸ってなかったのになあ。大好きな酒も控えるようにとも言われたな。まだ事実をうまく咀嚼できておらず、そんなことしか考えられなかった。はあ、たしかに今まで頭痛に悩まされることは多かったが、まさかこんなに大事になっていたとは思いもよらなかった。

その後、大きな大学病院でまた検査入院をし、またそこでも「これは手術が必要ですね」と。もう知ってるよ。だってもう前に同じこと言われたんだから。頭痛がトリガーなのか、治りかかっていたパニック障害も再発し、もう自暴自棄になっていた。夢ももうないし、彼女とは別れたし、酒もタバコもだめなんだ。「お医者さん執刀でミスって俺を殺してくんねえかな。別に思い残すこともないし。やりたいこと全部やったんじゃねえかな。」と本気で考えていた。もう人生どうでもいいとは言いつつも、親友たちにはちゃんとこの病気ことを伝えた。すると「まだあと80年は一緒に飲むんだから死んじゃだめ」って言われてしまった。白髪になっても楽しそうに飲んでる自分たちの姿を想像したら涙が溢れてきた。自分でも意外だった。もう少し頑張ろうと思えた。その後また手術のリスクについて色々と説明を受け、なんとかかんとかが20%、あれこれが10%、なになにが10%、その他もろもろ%と書いてある書類を渡された。「あれ、これ思ったよりリスク大きくない?」と思いつつもイケイケ系な医者のスマイルに流され書類にサイン。どうせ放っておいてもしんどいだけだし、元より手術を受ける他選択肢は無い。脳の出血リスクを抑えるためのカテーテル手術を2回、メスとドリルでアタマを切り開く開頭手術が1回の計3回による手術が行われる。とは言え俺はまな板の上の鯉。俺ができることは待つだけだからと鷹を括っていたが、現実はそう甘くなかった。カテーテルはまだいい。本当にただ寝てるだけだから。しんどいことは頭痛と高熱が出るくらい。文字通り危険なのが最後の開頭手術。麻酔がさめると同時にパニック発作に襲われ、看護師さんたちの指を握り締めながらストレッチャーでどこかへ運ばれて行った。その日は集中治療室の片隅で一晩を過ごすことに。隣りで8歳の男の子が酸素マスクを嫌って泣いていたので、俺がかすれ声で「苦しいね。お兄ちゃんと一緒に頑張ろうね」と声をかけると静かになった。その夜俺は満悦感と鎮痛剤、そして安定剤に浸りながら眠りについた。

翌朝、俺が痛みでゲェゲェ言ってるそばであの男の子はばっちし朝食を取ってNHKかなにかの恐竜の特番を見ていた。なんだか元気を少し返して欲しいなと思ってしまった。いや、まあ元気になってくれて何よりではあるが、なにかしっくりこなかった。ごめんな、お兄ちゃん、今余裕がないんだ。

 この開頭手術とカテーテル手術は2日の中で連続で行われたので、ずっとベッドに固定されていたことによる床ずれで俺のかかとは赤く腫れ上がり、皮が少しめくれていた。寝ているだけで怪我するって意味がわからない。本当に何もしてないのに。そして、時間が経つほど熱が上がっていくのを感じつつ、痛みは最高点に達し、体の一切も動かせず、ナースコールのボタンも探し出せず、本気で死を感じた瞬間があった。自分でできることが全くなにもないという事実が、より死をクリアに実感せさた。もし誰も助けに来なかったら死ぬ。。。なにか管でも抜けたら死ぬ。。。あ、死ぬ可能性もちゃんとあるんだった。。。そんな中思い出したのは大好きなアーティスト、星野源さんが歌っていた『地獄でなぜ悪い』の歌詞にある、「いつも夢の中で 痛みから逃げてる あの娘の裸とか 単純な温もりだけを思い出す」といったフレーズ。源さんもクモ膜下出血で倒れている中でこの曲を書いていたので、状況は当時の俺とかなり似ていたはずなのに、申し訳ないが源さんには1ミリも共感できなかった。体に管が4本も刺さっており、生きているというより、「生かされている感」の方が強かった。3日も飯を食べてなかったのに食欲はないし、眠気というより大量に投与された薬によるフワフワとした感じばかりだし、性欲に割くエネルギーは1ミリも持ち合わせてなかったからだ。どうやらGACKTも死の淵にいた時に3ヶ月SEXしてなかったことを悔やんでいたらしい。普通にそんくらい我慢しろやって思ってしまった。なんだかこの2人は常人とは違うなとそう強く感じた。

 最後の手術から3日経過してからようやく補助ありで立てるようになった。まる3日布団の上にいたからか、身体がまるで言うことをきかない。こんなのでも順調すぎるほどにすごいことらしい。普通は6日ほどかかるんだとか。看護師さんに支えられながら床に足をつき、視線が上がるとすごく興奮した。今まで目の届かなかった窓の奥、その先が見える。今ここに、生きていることに強い喜びを感じた。パニック発作の時はあれだけ死にたい死にたいと言っていたのに、今では生きていることに感動して、震えている。人は変われると言うけれど、自分にとってはあまりにも大きすぎる変化だ。正直ついていけていない。もちろんすごく嬉しい。スマホを開くと、たくさん通知が来ていた。指はあまり動かせなかったので、母にボイスメッセージボタンを押してもらいながら、しゃがれた声で生還メッセージを送った。本当にみんな心配してくれてた。応援してくれていた。その喜びと、そして自分の今までの鬱々とした態度の申し訳なさで涙が止まらなかった。生きててよかったって、本当にそう思えた。そう、俺は今生きている。

 その日は家族がみんな面会に来てくれて、俺の傷口を見て笑っていた。「ドラケンよりえぐいやんっ!いかつっ!けっこうイケてるやん。」ここでこう笑ってくれるのが俺の家族のいいところだ。実際とんでもない傷だが、まあまあ、病気に打ち勝った勲章としては悪くはないかもしれない。ドイツの友人たちからは「 Du Löwe」(お前はライオンだ!)とメッセージが来ていた。よくわからなかったけど、俺を褒めてくれているのは感じとれた。だんけ!だんけ!

 そう言えば、手術前に「お医者さん執刀ミスって俺を殺してくんねえかなー。」とか思っていたと書いたのだが、病気のあった右側頭部とは全く違う額の部分になぜかずっと絆創膏が貼ってある。もしかしたら執刀でミスって俺のオデコを切ってしまったんじゃないかなって勝手に思っている。もしそうだったら面白い。

 家族と一通り話した後リハビリのため、ドラゴンボールのフリーザ第1形態が乗ってるような歩行器を使って館内をほんの少しだけ歩いた。その時よっぽど俺の膝が震えていたのか、その晩に看護師さんたちに、「産まれたての小鹿みたいだったけど大丈夫!?」と笑いながら心配された。いや、こっちは本当に必死だったんですよ。たしかに生きようと懸命にもがく様は産まれたての小鹿という言葉がぴったりだ。ついこの前までもう死んでもいいと考えていた自分にとっては最高の褒め言葉である。俺は勇敢果敢な小鹿であり、ライオンの勲章を持ち、学び続ける人間である。「生きること」の大切さを身をもって学ぶことができた。リスク大きすぎ!ではあるが。

 なんだか締めに入りそうだが、まだあと2週間は入院して傷口をゴッシャゴッシャと洗い、傷口を塞いでいるホッチキスをばちんばちんと外す仕事がまだ残っている。もう少しだけ頑張らなきゃいけない。それに平衡感覚が衰えているのか、アラレちゃんやナルトのように手を広げていないと普通に歩くこともできない。まずは歩くことを目標に頑張ろうと思う。落ちる所まで落ちた。あとは這い上がるだけだ。今の俺は気合いに満ち溢れている。

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