それは宝か、はたまたゴミか...? 自分の当たり前を疑ってみる大切さ
ゴミだと思って、ポイっと捨てたそのカケラ、実は大事なものかもしれません….
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久々に義理の妹宅に招かれて、食事をした休日のこと。娘の好きなラザニアを大皿いっぱいに作って迎えてくれた。
そこにはさり気無くシュッとしたフランスパンとバターが添えられていた。
フランスパンには目がない私。しっかりとした歯ごたえと、噛めば噛むほど出てくる味わい、バターとの相性もピッタリ。
ああ、なんて幸せな時間….そんな気分で呑気にフランスパンをかじっていた時のこと。パンの端に1粒の固くなった米粒がついていた。
恐らく何かの折に、パン皿に紛れ込んだのだろう。でも、そんな事を招かれた家で出された食事に対して、つべこべ言うのは宜しくない。
折角の和気藹々とした雰囲気を壊してはならぬ、とそっと口からその小さな米粒を出し、皆に気付かれぬよう、近くにあったのゴミ箱にそっと捨てた。
***
ラザニアを口いっぱいに頬張って、その濃厚なソースとチーズをしっかり舌で味わっている時に不意に気づいたのだ。
『何かが足りない』と。
そう、それはいつもそこにあるはずの私の一部。随分前に奥歯に入れたセラミックインレー。
ご飯粒だとまことしやかに思い込み、疑う事すらしなかった、その小さな粒は私の歯の補強材だった….
***
休み明けに早速、馴染みの歯医者さんに電話をする。事情を話すと、意外な問いが返ってきた。
『欠けたセラミックはお手元にございますか?』と。
一瞬で事情を把握し、鼓動が高鳴る私。やってしまった...! そう言うことか...!! どうやら、手元にあればそれをくっつけることが出来るらしいのだ。
でも、そんなものはもうとっくの昔に、ゴミ箱にポイっと捨ててしまった。
『…すみません、米粒だと勘違いして、ゴミ箱に捨てちゃいました…』恥ずかしいやら、悔しいやら、情けないやら、色んな思いが交差しながら肩を落として伝える私。
『そうなんですね...だとすると、新しいものを作るに恐らく5万円ぐらいはかかるかと思います ….』申し訳なさそうに、受付のお姉さんはそう付け加えた。
金額は想定内、以前もそれぐらいかかったからなんとなく分かっていた。でも、一度取れてしまったものを、くっ付けるなんて『出来るはずない』と思っていた。
フランスパンについていた小さな粒は、固くなった米粒だと『信じて疑わなかった』そんな自分の思い込み(偏見)の連続が、今回の悲劇に繋がったのだ。
だとするならば、せめて未来の学びにしようではないか。
私の5万円のセラミックインレーは、日常の中でいかに自分が物事を決めつけているかと、とてつもなく分かりやすい形で、私に気付かせてくれた。
よくよく考えれば、私たちはそんなことの連続だ。目に見えない、分かりづらいものなら尚更。
『私は、こういう人』
『人生は、こういうもの』
『これはできない』
『これならイケる』
など、考え出したらきりがない。でも、その自分の思考のクセに気づき、時にはちょっと立ち止まってみる。
真っさらなニュートラルな視点で、物事を観察してみる。
何も考えずに行動する前に、ちょっと手を止めて考えるってことも大切なんだと、教えてくれる。
ゴミだと思っているソレ、
もしかすると大切なものじゃないですか?
そしてその逆も然り_
大切だとぎゅっと握りしめているコレ、
本当に今でも必要ですか?
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