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人生は「生から死への移動時間」にすぎない

僕は移動時間が好きだ。

実家へ帰省するときは新幹線を利用するのだが、ここでも「のぞみ」ではなく「こだま」を利用することが多い。「のぞみ」なら東京から大阪まで二時間半で着くところが、「こだま」ではたっぷり四時間かかる。

「四時間もよく乗ってられますねえ」と言われるのだが、僕はこの時間が大好きなのだ。もう乗る前から「乗ってるあいだに何しよっかな……」とワクワクする。そして不思議とそこでは、作業がはかどるのだ。

その理由をぼんやり考えてみると、この「移動時間に何かをする」というのは、なんとなく「お得感」があるのだ。この「お得感」はどこからくるものなのだろうか。

まず、「移動している」というだけで、「すでにひとつのことを行っている」ということが大きい気がする。本来なら、もうそれだけで十分なのだ。

にもかかわらず、それに加えて「自分のやりたいこと」も同時にできてしまう。まさに「一粒で二度おいしい」状態である。ここに、素敵な「お得感」があるのだろう。

そしてよくよく思い返してみれば、このお得感は、決して移動時間だけのものではない。たとえば、「洗濯機を回しながら別のことをする」というのも、「お得感」を感じる行為のひとつだ。「洗濯をする」というだけでもひとつ仕事をしているのに、同時に別の仕事もこなせてしまう。

「俺、マッキンゼーで活躍できるんじゃないか?」

と錯覚を起こしてしまうほどの「お得感」だ。

もしこの「お得感」が、人生の中でずーっと続いたら、どれだけいいだろう。だが、そんなことはありえない。

……と思いかけたところに、ある言葉が頭の中に浮かんできた。

「生きてるだけでまるもうけ」

そうか、そう考えればいいのか。

僕は冒頭で「こだま」での移動時間を例に挙げた。それと同じように、人生そのものを「生から死への移動時間」と考えてみてはどうだろう。

本来、僕たち人間は、「生から死への移動=生きること」だけで、十分やるべきことをやっている。にもかかわらず、それに加えて、同時にいろんなことをやっているのだ。

そう考えれば、もう何をしていても「お得感」を感じることができるではないか。まさに「生きてるだけでまるもうけ」である。

この言葉は、明石家さんまさんが座右の銘にしていたことでよく知られるようになったようだが、ようやく「自分のもの」にできた気がする。

「生きること=人生」とは、「生から死への移動時間」にすぎない。そのあいだに何かできればいいし、何もしなくたって、それで十分なのだ。

それぐらいの軽い気持ちのほうが、人生はより「はかどる」ような気がする。

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