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「悲しみ」の共有(映画『山歌』を観て)

この映画で描かれる「サンカ」とは、かつて日本の山々に実在した山の民である。

彼らは日本の近代化とともにその姿を消してゆくが、それゆえに「前近代的なものの象徴」として描かれることも多い。また、この映画のパンフレットでも説明されているように、その実態がよくわかっていないがゆえに、まるで猟奇的な存在であるかのようにして、人々の好奇心をあおる描かれ方をしてきたという歴史もある。

つまり、サンカが描かれるとき、そこには「われわれとは異なる存在」という視点が常に置かれてきたのである。

本作においても、「近代/前近代」という対比が重要な位置を占めていることは言うまでもない。だが、本作の面白いところは、そうした「違い」が描かれながらも、観る人はむしろ「近代人」と「サンカ」との、「共通点」のほうに惹き付けられるというところである。

主人公の父親は近代的価値観を象徴するような存在で、いわゆる「成功者」である。ところが、決して幸せそうには見えない。むしろ「苦悩する存在」として描かれているような気がする。

それに対して、「貧しくとも豊かで、幸福な存在」としてサンカが描かれているのであればわかりやすいが、そういうわけでもない。サンカもまた苦悩しているのである。

誤解を恐れずに言えば、われわれ「近代人」も、「サンカ」も、どちらも「自由」を求めているのだと思う。だが、そうでありながら、「近代人」が求める「自由」と、「サンカ」が求める「自由」は、同じものではない。

「近代人」が求めるのは、「みずから(自ら)のままになる」という自由であり、「サンカ」が求めるのは、「おのずから(自ずから)のままになる」という自由である。

とはいえ、「近代人」もどこかで「おのずからのままになる」ことに憧れているし、「サンカ」が「みずからのままになる」ことを否定しているわけではない。そんなに単純に割り切れるものではない。

都市とは、一面において、人間が「なすがまま」に作った空間である。にもかかわらず、人間たちはその中で「思うがままに」振る舞うことは許されない。それどころか、「みんなが想定できるであろう行動」の中に、閉じ込められてしまっている。

それに対して、サンカが生活する山は、自然の力が支配的な空間である。そこで人間は、ただただ「あるがまま」でいることは許されない。自らその空間に手を加え、ある意味での「小都市」を作らなければならない、とも言える。

「なすがまま」を求める心と、「あるがまま」を求める心。

前者の主体が「個人の意志」であるとすれば、後者の主体は「自然の意志」あるいは「世界の意志」と言えるかもしれない。

そして、そのどちらもが、完全に成就することはあり得ない。

全てが思い通りにならないことは言うまでもない。だからといって、全てを自然に委ねることもできない。そこに、人間の悲しさがある。

だが、その「悲しさ」のもとでこそ、「われわれ」と「サンカ」は、本当の意味で出会うことができる。「悲しみ」を共有することで、「われわれ」は共に生きていくことができる。

この映画は、主人公の心の葛藤を通して、そんなことを語りかけているような気がする。


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