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混迷の時代の原点回帰(10/16イベント「弔いとは何か、コロナ禍に問う死者とのつながり」によせて)

「混迷の時代」とか、「先が見えない」と言われる時代。

新型コロナウイルスの登場で、これほど世界が一変してしまうことを、一体誰が想像し得ただろう。

もちろんそれ以前にも、東日本大震災や、それに伴う原発事故、巨大台風や豪雨災害など、これまでの人生の延長を許さない事態はたびたび起こってきた。

もっと小さなスケールで言えば、毎日乗っている車や電車、あるいは飛行機がいつ事故を起こし、自分や家族が巻き込まれるかわからない。人間関係のトラブルが命のやりとりにまで発展することだってないとは言いきれない。

「いつの時代だって、そうだったよ」

とクールに言い切ることだってできなくはないだろうが、ぼくの考えは少し違う。人類史の観点から見て、千年単位の大転換の時期にさしかかっているのではないか。

それは一言で言えば、近代という時代の行き詰まりであり、「自然は無限に存在する」という仮定のもとで推進されてきた資本主義経済の限界でもある。その断末魔の時代を、ぼくたちは生きている。

温暖化に象徴される気候変動は、ローカルな範囲にとどまらず、地球規模で大きな影響を及ぼす。誰もそこから逃れることはできない。

「これまでの延長線上に未来を描くことができない」

このことが、人々に不安を与えるのは当然のことだと思う。

ベルクソンは言う。

「未来のうちひとに予見できるのは、過去に似たものか、過去に似た要素から構成しなおせるものにかぎられている」(ベルクソン著、真方敬道訳『創造的進化』岩波書店)。

この「当然の不安」に対応するためには、より確固とした「当然」に目を向けるのがよいとぼくは思う。そこからものごとを考えていくことができれば、時代の不安を多少なりとも払拭することができるはずだ。

では、そのより確固とした「当然」とは何か。

それは、「人間は必ず死ぬ」ということである。

当然すぎて口をあんぐりしている方もいるかもしれないが、実はぼくたちが生きてきたのは、この「人間は必ず死ぬ」ということを覆い隠してきた時代でもある。

ひと昔前までは、ほとんどの人は自宅で死を迎えた。必然的に、多くの人がその死を目の当たりにし、さまざまな形で関わることになる。しかし現代では、死は病院に閉じ込められている。そこから葬儀を経て火葬場へ送られ墓に埋められるのも、いまやひとつの「パッケージ」として商品化されている。

ぼくたちは、本当の意味で「人間は必ず死ぬ」ということを知っているのだろうか?

ものごとを考えるとき、まずは「いちばん確かだと思われること」からスタートするのは大切なことだと思う。もちろんそれが最終的にひっくり返されてもかまわないのだけれど、不安定な土台の上に堅牢な城郭を築くことはできない。

とすれば、ぼくたちがいま抱えている不安は、この「土台」が極めて不安定な状態にあることを教えてくれているのではないだろうか。あるいは、ぼくたちが確かだと思っていた土台が、実はとても脆いものだったことを教えてくれているのではないだろうか。

この時代を覆う不安感、そして生きることの不安感は、「ぼくも、みんなも、必ず死ぬのだ」という、この最も確かな土台に立ち返ることを促しているように思えてならない。その「自己の死」、あるいは「大切な人の死」を通して世界を見たときにはじめて、人間の世界の小ささと、自然や他者に支えられて生きてきた自分を、本当の意味で感じることができるように思えてならない。

そこでふと頭に浮かぶのが、「昔の人たちは、死をどのように捉えてきたのだろう」という素朴な疑問である。まだ死が身近にあった時代、弔いということが生活の中にあった時代。それを知ることは、過去を知ることにとどらず、ぼくたちの生を支える営みでもあるはずだ。

ずいぶん前置きが長くなってしまったが、下記のイベントは実にタイムリーというか、これからの時代の生き方を考えるうえで本質的なテーマを扱っていると思う。Zoomで参加できるそうですので、よろしければ。ぼくもリアルで参加します。

高橋繁行さんが執筆された『土葬の村』の感想文も書いてみました。


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杉原 学
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