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死は消滅ではない

死にたい子供だった。
死後の世界の事を思うと好奇心に負けて死んでみたくなった。
誰も知らない、でも生きていれば必ずいつかは経験するであろう死後の世界。
一線、というのがそこには確かにあって、それを超えてしまえばそれを生きている人間には伝えられなくなる、一世一代の覚悟のような現象、それが死だった。
病床の父は朦朧とする意識の中で言った。
「船がいっぱいだったから、乗れなかった」
ホーキンス博士や悪魔崇拝者のアントン・ラヴェイは死後の世界など存在しないと言った。
死後の世界や天国が脳内麻薬の産物だとしたのなら、私たちの意識はその後どこへ旅立つのだろうか?
私たちが考える事のできる物質に過ぎないのなら、肉体亡き後思考は停止する。意識、魂というものが存在するとしたら、それはそれで面白い。
私は消滅を恐れている。
自らの手で命を絶った級友は”その後”、どこに存在しているのだろうか?


映画「リメンバー・ミー」には死後の世界の物語が登場する。一見すればありふれた子供向けのストーリーなんだが、大人たち、あるいは深く追求するタイプの子供達にとっては、一種悪夢のような物語なのかもしれない。
死後の世界にも格差が存在し、消滅も存在する。
死後の消滅は、現実の世界に自分の事を憶えている人間が存在しなくなった時に起きるのだ。
魂は意識間を行き来できるのだとしたら、これはこれで面白い仮定だと思った。死後、天国や地獄は存在しなくとも意識だけは存在し続け、他人の脳の中で思い出として生き続ける。その思い出がこの世の誰の脳に存在しなくなった時が本当の消滅になる。私たちの魂は、”思い出”なのだ。
これは、ひたすらに緩やかな消滅である。偉人などそれこそ永遠に消滅できないではないか。一方凡人の私なんかすぐに忘れ去られてしまう。


メキシコには日本の盆に似たディア・デ・ロス・ムエルトスという死者の日がある。亡くなった人の為に祭壇を作り魂を迎え入れ、偲ぶというよりは結構なお祭り騒ぎだ。11月1日から2日にかけて行われるそのお祭りは、マリーゴールドの鮮やかなオレンジを筆頭に、砂糖で出来たガイコツや、死者のパン、故人が生前好きだった食べ物を飾り付けたり、それはもうすごくビビッドで非現実的で、私たち大半の日本人がイメージする黄泉の国とはだいぶかけ離れている。人々も仮装したり、骸骨メイクを施したりして、見ているだけでも楽しい。


私が高校生の頃、こっちに来て初めてできた友達がメキシコ人だった。彼女は大家族で農場で暮らしていた。メキシコ人は家族をすごく大切にする。そして家族の友達をこれまた本当の家族のように扱ってくれるのだ。ギャングだ、壁を作れ、不法移民め!何て色々ネガティブなイメージばかりだけれど、彼らは本当に暖かく、情が厚い。そして信仰深い。子供達はすごく礼儀正しいし、大人たちは親身になっていろいろ聞いてくれる。日本人にどことなく似ている人当たりは心地よかった。スペイン語の発音も日本語の発音もやはり類似しているので、これもまた教え合ったりして、楽しかった。
彼女は5歳までメキシコで過ごして、家族と一緒にアメリカへやってきた。メキシコは法律なんて無いようなもんだから、すごく真面目な彼女さえ初めて煙草を吸ったのが4歳の頃だと聞いて驚愕した。私が出会った頃の彼女はカトリック教徒で、クラシック音楽を聴き読書が趣味の、いわゆる優等生だった。いつかメキシコに行こうと言ったら、メキシコシティ以外は行かない方が良い、危険だからと忠告されてしまった。
メキシコは貧乏と金持ちの格差がありすぎる国だと思う。アメリカで成功した家族や親族を頼り、不法侵入する若者や子供達も多い。ギャングから逃げるためにアメリカにやってくる子供達も多い。消えてしまったアメリカンドリームがまだそこには存在しており、一種のおとぎ話のように子供たちを魅了しているのだろう。大人たちにもアメリカはまだ魅力的な国なのだろう。

死者の日もそうだけれど、サンタムエルテ信仰などをみていると、メキシコ人は死を明るく受け入れ、死を友達とし、死を信仰の対象にする、まさに死をタブー視していない感がある。それ故に殺人が横行しているのだとしたらとても悲しいが、若くしてギャングの抗争に巻き込まれ亡くなる人も多いのが、メキシコ人をはじめとする南米からの移民だ。私は比較的南米からの移民が多い地域に住んでいるので、最近は減ったが、数年前までは毎晩のように銃声がし、一度なんかすぐ横の通りで殺人があり、横たわった死体を目撃した。
日本にいた頃は自殺や病気で身近な人を失う事が多かったが、こっちに来てからは殺人が身の回りで起きるので、死がとても身近になった気がした。それは自分がいつギャングの流れ弾に当たってもおかしくないだとか、気の狂った連れの友達にぶっ殺されたりだとか、そういう風に当たり前に死に巻き込まれていくかもしれないという身近さだ。実際、家に行き来する間柄の友人が、交際相手を刺殺し、死体を焼いたというおぞましい出来事もあった。彼が逮捕されるほんの数日前に家に遊びに来ていたので、本当にぞっとした。

「リメンバー・ミー」にも死と同じく殺人や嫉妬、親に固く禁じられていること、夢をあきらめないこと、など本当にタブーとなっているような事柄が多く盛り込まれているのだ。
信仰心が厚い人間が多いお国柄らしく、信念も強い。一度決められたことや、言い伝え、タブーは絶対に守り通さなければいけない。
一度世界各国の売春婦を比較したドキュメンタリーをみたのだが、メキシコの売春婦たちは元締めの男たちにサンタムエルテ信仰をやらされており、そこから逃げ出せないようにまじないを掛けられている。まじないと言ってもほとんど洗脳のようなもので、子供だましだが、きっと信じている人間には怖いのだろう。女たちはそこにとどまり性の捌け口となり、いやいやその行為をしている感じがした。

死にたい子供だった私は、死にたい大人となった。時折感じる死に対しての好奇、鬱状態で絶望の中死に渇望したこと、しあわせの絶頂このまま死んでしまえたらいいのにな、と感じたこと。死が身近になり、子供を産むという経験で”生”も身近になったころ、私は死ぬのがとても怖くなった時期があった。それは私自身の死に対しての恐怖ではなく、我が子の今後に対しての恐怖だった。そんな自分勝手な恐怖が湧いて来るなんて、とても不思議だったのを憶えている。
要するに、たとえ私なんかがいなくても地球はまわるし、子供達は育っていく。連れも何とか努力をするだろうし、落ちぶれたとしても、子供達は大人になっていく。私が死んだらこの子たちが苦労する、なんていうのはきっと自己満足の恐怖でしかない。

私の周りには、死んだらお墓なんていらない、という人間が多い。お墓は物体であり、実体ではない。骨や灰はかつて実体であったものだ。死後の実体は思い出なのではないか?だったらそれはあなたの頭の中や心の奥に存在する。なのでお墓なんていらないのだ。会いたくなったらいつでも思い出せばいいだけだ。
だけど私は墓めぐりが好きだ。それが確かに誰かの存在していた証拠となるのだし、墓石や建造物の芸術性も好きだ。日本の寺に隣接するお墓のちょっと不気味な所もいいし、アメリカの壮大な公園のような優雅でのどかな墓地も好きだ。
私は毎年盆になると母の田舎に帰り、山奥にみんなで行き先祖の墓を参るのが好きだった。一番立派な墓が最初に建てられた墓で、どんどん落ちぶれていき石ころを置いたのがひいじいちゃんとひいばあちゃんの墓だった。子供の頃ずっと、立派な墓を掘り起こしたら財宝が出てくるかもしれないと、蚊に刺されながらこっそり空想していた。

ネタバレにならないようにしようと構えすぎると、いつも話が変な方向に行ってしまう。
「リメンバー・ミー」は構えすぎずに見ることをお勧めする。ティッシュやハンケチは忘れずに!

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