見出し画像

[英治出版オンラインTalkLive]東北の起業家、社会的投資家と考える 「ほんとうに必要な変化」を生む方法 (厨勝義×山中礼二)

英治出版オンラインで連載を担当していた厨さんの最終回を記念してのトークイベントが開催されました。
とてもフランクな厨さんからは冒頭、こちらから一方的に話すのではなく来ていただいた皆さんの聞きたいことを適宜聞いてもらえたら。というリクエストと、どんな恥ずかしいことも誤魔化さずに言うので、皆さんに突っ込んでもらうことによって深掘りされていくような会にできたらという話があり、会がスタート。

今回は有料イベントだったのですが、無理言ってイベントレポートの承諾をいただきました。すみません!ありがとうございます!

東北の起業家、社会的投資家と考える 「ほんとうに必要な変化」を生む方法 ——復興・再生を超えて、変革・進化を遂げるには [英治出版オンラインTalkLive]厨勝義×山中礼二無縁の地、未経験の事業で地方の変革に挑む起業家。大企業、ベンチャー、ハーバードMBAを経て天職に出合った社会的投資家。

第1部:東北の起業家と社会的投資家―キャリア変遷とストーリー―

山中さん
大卒時は大手メーカーに入り、大企業の社長・経営者になろうと思っていたが、米VC研修でベンチャーに心を奪われる。その後グロービスキャピタルパートナーズ(GCP)に入り、休職してハーバードビジネススクール(HBS)に留学。老人ホームでインターンをしたりする中でソーシャルビジネス領域への関心が高まった。GCPに復職後、すごくいい会社があったのに規模などの課題で投資をしてもらえないケースがあり、現実社会への怒りから自分が身を投じようとHealth SolutionにCOOとして参画。リーマンショックという環境要因もあり自身の力不足も実感し、既に上場していたSMSに転職。そこで働きながらうグロービスの教員をしていた。そこで震災のタイミングに。

厨さん
三井郡北野町生まれ。(群民だったが、今は合併して消滅しているとのこと。)高専に進学し、海外へバックパック。その後エンジニアとして就職し、当時は工場の中で、ライフル銃の内側や原発の設備などに使われる精度の高い円を掘るためのドリル(深孔加工ドリル)を作っていた。英語が使えるというだけの理由で初年度から海外出張に同行させてもらうチャンスがあったりもした。
その時に見つけたのが当時経産省が行なっていたドリームゲートというプログラムのボブサップの「この国には挑戦者が足りない」というポスター。バブル時に闇雲に会社が立ち上がらないようにするため、株式会社を設立するためのルールが厳格化していて一定の資金が必要だった。それを経て今度は起業促進にと1円企業ができるようになったので、起業家促進のための各種プログラムやイベントが行われていた。サイバー上場直後くらい。

▼当時のポスターがこちら

山中さんと厨さんの出会い。
起業家のカバン持ちをしたい学生の募集があり、学生じゃなかったけどそこに行きたいと考え、卒業した学校に「研究生・在学中」ってことにしておいてとお願いをして応募。そこで、「ハーバードビジネススクール卒の講師」としてロジカルシンキングとか話していたのが山中さん。
山中さん側としては、グロービスの上司から断って来てほしいと言われてドリームゲートの話を聞きに行ったが、熱心にこのプログラムの必要性を語っていた現ユーグレナ社長の出雲さんに根負けして手伝う形だった。
無事プログラムに採択されてカバン持ちができた厨さんが配属されたのは、当時神戸にあった会社の社長さん。その経験の影響で会社を辞めて、再び海外に出る。帰国後人事コンサルの会社に入り、2008年に独立。しかし2ヶ月後リーマンショックになり、年末には無職に。自分の家と駅の間のキックボクシング道場に通いマラソンを走り、「プロになりたいの?」って聞かれるほどになる。
たまたま知り合いの社長さんにご飯に誘われて相談したら、「英語できるよね?翻訳できる?」ときかれ、そこから翻訳の仕事をもらい、数珠つなぎに仕事が増えていき技術関連の翻訳家になる。大きな翻訳会社が畳むことになり、その会社さんのリストをもらって営業先が拡大し会社として大きくなって飯食えると言えるようになった頃に震災。

カバン持ちの頃の同期で宮城から上京していた人から物資がないと相談を受けた。「ガソリン携行缶がない」と言われたが、当時は東から徐々に物資が足りなくなってきていて関西にもなかったが、実家のある九州にはあったので手配をしたりしていた。反対に、シェアハウスの同居人たちはみんなパニックになっていた。自分は理系だから科学的な観点で大丈夫だと思っていたが、寧ろ不安が募っていく彼らのパニックの方が危ないと思い、外国人には帰国することを勧めたりしながら対応し、ひと段落したところで「そうだ、京都行こう」と思い、京都で苔をみて癒されていた。いざ帰ろうと思って携帯を見たら「2トン車運転できる人探しています」という友人のツイートを発見し、そのまま名古屋に彼を止めるために行った。「片道分しかガソリンがない」「日本海側ルートならいけるかもしれない」など色々調べたりして、最終的には宮城出身の友人と4人で行った。
2011年3月末に現地入りし、目の前に繰り広げられていたのは戦後みたいな光景。避難所のリーダーが「猿の惑星みたいでしょ」というくらい、そこら辺に船があったり、川を渡ろうとしたら橋がなかったり、道の真ん中に家の残骸があったり。物資を届けてこのままで終わりではないけど、何をしたらいいかさっぱりわからない。「頭の良さそうな人に相談しよう!」と思いつき、ハーバードMBAの山中さんをファミレスに呼び出した。

食料物資は足りていて、エンタメや嗜好品が求められるようになっていた。自衛隊も医療機関もあって、もう命の危機はない。あとはこの土地でどうやって生活するのか、経済的にどうやって立て直せばいいのか。
1年目は瓦礫を片付けたり、避難所に物資運んだり。2−3年目は創業支援(内閣府や宮城県のお金での雇用創造型起業促進)で地元の人たちの起業に対してメンタリングをして伴走する側にいた。
2014年に、もうできる策での行動は出尽くしたなと感じた。ダメージはあったが、3年間で創業募集してももう地域内にてトライする人間が出てこないくらい、出し切ったと言えるような状況になった。これ以上はないなら、外から引っ張るしかないのではないか。周りからの期待もあったりしたし、3年住んできて、もう支援を受けて起業する側になっていってもいいかなと思い、じゃあ…俺かな。と石鹸屋を起業。グロービスの支援しているコンペにでたりしながら徐々に準備をしていった。

山中さん
当時、厨さんから「好奇心だけでもいいから一旦来てください」と言われた。その言葉がハードルを下げてくれて行くことができ、結果、現地の人たちにも魅了され、行き来するようになった。南三陸事業キャンプを手伝うことがあり、そこからグロービスが仙台キャンパスをつくることに。東北ソーシャルベンチャープログラムをやるから立ち上げをやってくれないか?と言われたので、フルタイムで戻ったのが2013年。
https://mba.globis.ac.jp/sendai/feature.html
講師の山中さんと生徒の厨さん。
参加者の中にめんどくさい人がいた。それが厨さん。100点中60点と言ったり厳しめなフィードバックをしてきた。本当に素敵な起業家が沢山いて、そこから派生して今のインパクト投資の仕事をするようになった。
厨さん
事業用の土地がない。ボロい民家のキッチンでつくるところから始まった。ボロい家の雑巾掛けを山中さんにさせたのが思い出に残っている。

元々は大きな石鹸を作っていた。
お世話になった人達にお礼をしなければいけないと思い、プレゼントとして小さいキューブを箱に入れて送った(商品ではなく感謝で)そしたらみんなが褒めてくれた。身内だからかと思っていたが、「売ってください」と言われたところから改良が進み、今の形になった。

第2部:ほんとうに必要な変化を起こす方法―復興・再生を超えて、変革・進化を遂げるには―

Q:これから活動しようとしている人たちへのアドバイスやメッセージを
厨さん
あまり有利不利を考えないでほしい。
カバン持ちした会社が神戸の震災後に起業したアメニティの会社。あの社長に会わなければ、こんなに頑張ってなかったし、復興支援もしていないし、石鹸屋も始めていない。
自分自身は土木建築業の長男だった。何かあったら自分が対応しなければという思いが心のどこかにあって、フリーランスのような働き方を続けていたが、父が亡くなってから場所が固定されるような仕事に着けるようになった。石鹸をやっているのはやっぱりモノづくりが好きだからなのではないか。と最近気付いた。
市場がどうのこうのではなく、パーソナルな部分が有るか無いかどうかで変わる。実母がものが食べられなくなった時の記憶を元に高齢者向けの弁当配達している友人とかを見ててもそう感じる。自分の源泉にあるものかいなかが、90点から上の領域をうむのではないかと。
山中さん
キャッシュが切れるとゲームは終わる。今からお金をためておくか、資本蓄積があるなら大胆にやればいいし、無いなら、ないなりの戦い方を。

Q:どうやって仲間を集めたのか
仲間を集めようとしない。一生懸命やっている人は認められるし、手伝いたいと思ってもらえる。石鹸屋の起業をした段階で翻訳の仕事を切っていったし、移住もいきなり全部やった。バランス取れているものには人間は興味がない。心がザワザワするようなことをする人は気になるし、その人の話は聞きたくなる。どれくらいの人に響くかはわからないけど、背水の陣をすると味方ができるんだと思っている。京都の石鹸屋の師匠も知らなかった人だけど、味方になってくれている。
(山中さんの補足:厨さんは取り繕わないし、飾らない。なので、敵もできるしファンもできる。ファンになった人は自分が何か役に立てることがあれば手伝おうとする。)

Q:なぜ石鹸なのか
言語化は難しいが、多分神戸の社長さんがきっかけ。アメニティをやっていた彼への憧れだったのではないか。当時はジャム・パン・石鹸が候補だった(単価が高くて、田舎で手作りした方が高いもの)。ジャムは果物の種類が足りなかった。山口の瀬戸内ジャムズガーデンがモデル。パンは1斤4000円とかで売れるけど、パン釜が高いし自分の性格が酵母を育てるのに向いていない。だから石鹸にしたつもりだったけど、今考えると憧れだったのではないかと思える。
あとは、輸出もしたいというのもあった。「銀座で売れました」では東京に負けている。「ニューヨークで売ってる」っていうところからコンプレックスやプライドをうまく乗り越えられるような効果を生み出したい。
山元町の水耕栽培でいきなり海外進出!というのを作ったが何も変わらなかったから、もっと実績を増やしたかった。

Q:クロスボーダー(国境を越えていける人)なのはなぜ?
合気道を学生時代やっていて、師匠がいた。部活ではなく外の道場の先生が指導に来てくれていた。新入生歓迎コンパで挨拶に77歳「今年いっぱいだから、君らにできることを精一杯やります。」と言われて、しんみりしていたら「来年からはカナダに行って、バンクーバーの道場で指導をするから、みんなもよかったら来てね」と言われて驚愕した。よくよく聞くと「指導者が足りないと言われたから行く。」「英語は行ったら覚えるだろうと思っている。」「モンゴルでスパイしていた時もわからなくても酒飲んでなんとかやっていた。」と言われ、目から鱗が落ちたし、その瞬間・シーンの情景が今でも忘れられない。「77歳カナダに行く」に比べたら普通かなと思っている。(山中さん補足:師匠破天荒過ぎた結果、弟子たちが思い切り動けて大活躍した吉田松陰的な感じモデルかもしれないですね。)
あとは、父の会社があるので、起業や事業をやることへの抵抗感がない。ナイター見ながら腹を出している父を思うと、自分でもできるんじゃないかと思うから、やっぱり大冒険とは思わない。

Q:頑張れた理由は何?
3年続いたのは、頑張ってないから。元々好奇心的な部分があったから、待っている人がいて大義名分ができたから宮城に行った。浮ついた気持ちは現場で吹き飛び、色々な人に助けを求めながら模索していった。
「痛みを感じる金額寄付した。」自分にとっては100万くらいかなあ。と思い、2011年4・5月に使おうと思った。現場で赤十字に寄付しても役に立たないと知っていたから自分でやった。でも知り合いが出来すぎて100万使い切る頃には抜けられなくなっていった。

Q:震災から7年。今は?ゴールは?
山中さん
色々な考え方はあると思うので、その地域なりのゴールをお互いが進んでいけばいいので、元に戻そう!でもいいし、新しい街を作ろう!でもいいと思う。都市部と田舎の新しいご縁やつながりを震災を通じで作れたのであれば、それを生かしたイノベーションが生まれていったらいいのではないか
厨さん
好きなだけ関わればいい。正解はないし、どうすればいいかもそれぞれ違う想いがあるから、どれだけ主体性を持って関わるか。遠くで支援してくれる人も、近くに行って商店街で動いてくれる人もありがたい。好きなやり方で、悔いのないようにやったらいいのでは。

Q:復興というと元に戻すみたいな前提があるような言葉だが、それは本当にそうなのか?
自分のやりたい事をやらない代わりの代理戦争とかいい。いらない。飲み屋で巨人ファンがぐちぐち野球のこと言うけど、言う前にてめえの前のことやれと思う。よそのことはいいから、いいからお前の仕事をしろと。
復興もそういったハラスメントを受ける。お前の関係ない場所の話を色々言うなと言いたくなる。
海士町で高校立ち上げしていた人と話をした時、(九州はなんとなく先輩後輩になる文化があるので)後輩っぽく相談してみたら、「お前どうするん?」「住むか住まんかやぞ」と諭された。東京からふらっと来た人にあーだこーだ言われるのは、きっと現地の人も嫌。口出すからには捨て身でやる。やらないからには口出さない気にしない。
被災地はここだけではない。全国各地の地方にある。僕に理由がないことには手を出していない(東日本と地元の隣の熊本はやってる)
最も人口が減った町(35%減)を本当に立て直そうとしている人たちがすごいと思っている。なので、わかりやすい復活の印として、「上場」したい。祝い事みたいなもの。お祭り感だけでもいいんじゃないか。

参加者からの感想
できる仕事よりできない仕事。できないかもしれないけどやってみたい。できないと思ってたのにできたら嬉しいし、できなくても学びがある。できることやったら、成功してもしなくても想定内でしかない。そんなのは面白くない。飽きると良くない。ちょっと出来なさそうな仕事を選ぶ。私たちもそうできたらいいなと思った。

最後は担当者から厨さんに連載をまとめた小冊子をプレゼント。参加者にも配布いただきまた。

復興もいろんな形があるし、外野があーだこーだ言って心理的な邪魔をするのではなく、できる人ができる時に、できるやり方でサポートできて、それがいろんな形で人に良い影響があれば、それをみんなで喜べたらそれで良いんじゃないかなと思えました。

英治出版では定期的にイベントが開催されています。詳細はこちら!

https://peatix.com/group/8065/events








シビックテックのCode for Japanで働きながら、小児発達領域の大学院生をしながら、たまにデザインチームを組んで遊んでいます。いただいたサポートは研究や開発の費用に充てさせていただきます。