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わたし達の本体は水であり、身体で彩りが与えられている仮説〜坐禅・「ことばの焚き火」的対話〜

鎌倉にある一法庵のPodcastで、「宗教体験をめぐって」 藤田一照 & 山下良道(19/06/11 )というのを見つけて、朝ごはんを作りながら聞いていた。聞いてもらうとわかるけど、自分の「外に出るか、出ないか」について一照さんと良道さんが結構やりあってる。もちろん、喧嘩しているわけではない。私にとっては、これは一照さんと良道さんの身体性の違いなんじゃないかと思う。身体からくる感覚だから、おいそれと相手の意見に譲るわけにはいかない。そんなことを思って聞いていると、「外に出る、上がる」感じの良道さんの声は高めで、「外に出ない、下がる」の一照さんの声は低めだ。それに意味があるかないかはわからんが。

そんなわたしは、どちらかというと、「外に出ない」説明の方がしっくりくる。身体という制限がある以上、出ようがなく、出たつもりでいるところで、結局、身体の中から見た話にすぎないやないかい、と思ってしまうのだ。しかし、良道さんは、そんなことを言っているのではないのだろう。なんとなく話しているコード、周波数が違うってことなんじゃないかと思う。

一照さん、良道さん、お2人のお師匠さんである安泰寺の内山興正老師の著作は、(私の目からは)私の感覚に周波数が合い過ぎるくらい合って、しっくりし過ぎて驚くくらいなんだが、その内山老師が、キリスト教、仏教などの宗教の違いは「語り口の違い」と書いていて、いや、ほんとにな、と思う。

わたしはキリスト教プロテスタントの洗礼を受けていて、教会にも通っていたが、その語り口に身体的に違和感を感じることがあって、足が遠のいてしまった。いい加減な気持ちで通っていたわけではなく、真剣だったからこそ、誤魔化せなくなった。今でも、「イエス様が道です、真理です」と言えるし、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、み心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)と言いながら、十字架にかかったイエス・キリストに倣いたいと思う。しかし、語り口としては、どういうわけだか仏教の話の方が、スッと入って来てしまう。そう言えば、保育園は曹洞宗のお寺さんだったし、中学時代は、亡くなった祖母のために、毎日仏壇で般若心経を唱えていたことを思い出す。

それが、アダムとイブからであろうと、元素からであろうと、人間が最初は1つのものから出て来たことは間違いないだろう。にも関わらず、わたしたちは身体を持ち、一体になろうと思っても、皮膚から先は相手の中にい入り込むことはできない。別々の身体を持っているから、感覚器官からの入力も違い、感じること、考えることが違う。だから、それぞれの身体性によって、入りやすい語り口と、入りにくい語り口があるんじゃないか。仏教だって、インドで生まれたものの、インドでは廃れ、禅は中国で生まれたが、日本で盛んだ。土地と身体性が密接に結びついていることを考えると、こういうことが起きるのは当然と言えば、当然と言える。

ここからが本題。これから、わたしという身体から出る語り口で、一つ「外に出るか、出ないか」のところを語ってみたいと思う。これがピンとくる人もいるだろうし、なんだかよくわからない人もいるだろう。届く言葉が違うから、『ことばの焚き火』も4人の著者で書いた。当時は、感覚的にそうしただけで、「語り口」を意識していたわけではなかったが。

わたしたちは水の惑星と呼ばれる地球に住み、ずいぶん前は海の中に棲んでいたらしく、陸に上がる時に、海の水を身体の中に蓄えることになったようだ。身体の約70%は水分でできており、その成分は海水に近しい。水は記憶を持っているという人もいるが、なんにしろ、全人類が同じ水を元にした身体を持っているのかもしれない。

水は全身に行き渡っているわけだが、わかりにくいので方便とそして、以下のような図を描いてみる。元が同じこんな水がそれぞれの身体の中にあって、デフォルトでは、静かな湖面のような、鏡のような状態と考えてみる。透き通っていて、湖底の湧水もよく見える。

デフォルト

さて、仏教では、六識と言って、6つの感覚器官から入る6つの認識があるらしい。その六識で外界を認識すると、この凪だった湖面に、どうも波が立ってくる。

第一の矢

五感から入力されたものが、脳と結びつくと、「痛い」「美味しい」「まずい」「モヤモヤする」「イライラする」「ムカつく」「楽しい」「嬉しい」「好き」「嫌い」などなど。これは、もはやかなり反射的なもので、止めようがないのだか、すると湖面が波立ってきて、水の透明度に濁りが出て、湖底にある湧水が見えにくくなる。これが、お釈迦さまが言った第一の矢ってことではないか。デフォルトが静かな湖面なので、この波もしばらくすれば落ち着いてくる。しかし、これで終わらないのが人間だ。

第二の矢

「モヤモヤする」「イライラする」が起こっても、それだけにすればいいものを、「あいつが、自分にあんなこと言ったから」「わたしが情けないからこんなことにいなった」と、誰かを責めたり、自分を責めたり。あるいは、「わたしが才能あるから、こんな成功ができたのね」と有頂天になったり、よせばいいものを、勝手にストーリーを作って、さらに湖面を波立たせる。もはや、湖底の湧き水なんて見えようもない。

普段は、こうした波自体が自分だと思って、「あれが好き」「これが嫌い」な自分を自分と認識しているが、本当のところは、この静かな湖面が本体なのである。波はDNAに含まれているかもしれない水の記憶や、社会から伝わってくる波動や、脳や身体が体験した記憶や、身体の形状などの諸要素の複合体(縁起)であって、確固たる何かではない。

わたしたちの日常においては、常にこの湖面が波立っており、静かな湖面を思い出すことすらできない。先日、ティクナットハンが立ち上げたプラムヴィレッジのリトリート@東大に参加したとき、マインドフルネスの状態を「I'm home」と言っていた。そう、静かな湖面こそ、homeなんだろう。ここに還ってくることが大切であり、坐禅はそのhome感を思い出すものなんだと思っている。homeにいる時の身体感覚さえ身体が思い出せば、ノイズに溢れた日常生活の中でも、homeに戻りやすくなる。

そして、私にとって、自分が実践している「ことばの焚き火」的対話も、事実はhomeに戻るためのものだと思っている。ことばを使うだけに、より日常生活に近い感じもある。

波がなぜ起こってしまうかというと、内山興正老師のことばで言えば、「他との兼ね合い」で人が生きているからだ。「あの人が自分よりいい生活をしているから、悲しくなる」し、「人前でバカにされた気がするからイラつく」のように。焚き火に薪をくべるように、呟くように真ん中に出す「ことばの焚き火」では、自分と波を一体化させないで、波を見て言語化する。「話す」は「放つ」。間を置いて、客体化し、その波を観察して、言語化すると、それが消えていく。これをお焚き上げや成仏と表現する参加者もいた。

「ことばの焚き火」的対話をしている最中も、人のことばを聞いてるから、どんどん波が立つ。モヤモヤし(第一の矢)、理由をつけたくなる(第二の矢)が、それに反射的にならず、保留し、その波を見るという作業を繰り返すことによって、良きにつけ悪しきにつけ、その波が自分の執着から来ていることに気づく。他者と一緒にいて、他者のことばを聞きながらも、静かな湖面に戻れるようになると、日常生活でも静かな湖面に戻りやすいし、ふとした時に、湖底から出る湧き水のように、洞察が立ち上がったりする。

森羅万象を映す鏡

そんな静かな状態でいると、外界の世界が、自分の内側の水にそのまま映し出され、それに呼応して、湖底から洞察が湧き上がってくるように感じることがある。

わたしは、3年間いわゆるライスワークから離れ、日常生活で静かな湖面(home)に戻る時間が増えてから、現在、産業保健師の業務に戻っている。すると、同じことをやっているのに、全く世界が違って見えるのだ。以前は、「産業保健師としての正解」「成果を出したい自分」「役に立ちたい自分」「有能さを証明したい自分」なんかが、どんどん波をつくって落ち着かない状態であったが、今はhomeにいる状態から世界に関わろうという姿勢でいる。すると、ただ日常業務に向き合っているだけで、社会が見えてくるようで、日々、いろんな気づきが立ち上がり、sense of wonderな喜びがある。

まるで自分の静かな湖面に、森羅万象が映るような感じでもある。しかし、そうは言っても、身体という制限があり、身体を構成する水という成分が波動を感じるものであるとすると、湖面に映るのはわたしの身体の個性を反映した森羅万象になってしまうだろう。そして、きっとそれでいい、というかそれがいいに違いない。周波数が、波動の出方が、語り口が多様だからこそ、世界は彩りが豊かになっているはずだ。



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