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2月20日 内心の呟き、と世界の把握について。

曰く、「瞑想の修習に専念して、ついに形而上的照明の境に達したこれらの菩薩たちは、「内心の呟き」(manojalpa)を離れては、いかなるものの存在をも見ない。全存在世界は、ただ、内心の呟きのままに現出するだけである」(十四)と。
意味の深みへ 井筒俊彦 P.89

先日の日記で、世界をつかむには考える、しかないのではないか、ということを言ったのだが、この文からすれば、それは「内心の呟き」というように示されている。

烏滸がましいようだが、考え、と内心の呟き、というものには何か通底するものがあるような気がする。

井筒俊彦さんの引用は、大乗仏教のなかの唯識派の基礎テキストの一つである、「大乗荘厳経論」からのものであるが、この派は他の大乗仏教諸派と違って、深層意識が現象的世界の言語意味的な喚起において、大きな役割を持つ、という点が特にユニークである、という。

ということは深層意識を重要視する、つまりはユングのような「集合的無意識」といった考え方ともあるいは近しいような気がする。飛躍した考えかもしれないが、潜在的な集合的無意識こそが、ある意味において「神」といい習わされてきた概念に通じる、あるいは一部かぶる、といったような。

生まれ変わり、輪廻転生、という考えと、この集合的無意識論は、親和性が高いと思っている。グノーシス派ともあるいは近いし、禅的な考え、大乗仏教、鈴木大拙的禅、というもの、あるいはある種の神秘主義、人智主義とも。

その辺りはもう少し考えて行きたい、と思っている。

(思考実験、思考遊戯、ですね)

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