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5月3日 良い嫉妬と悪い嫉妬。

嫉妬とはエゴにより起きるものだろう。

平たく言えば「比較」。

自身より「いい」「得」「素晴らしい」を持っている他人のことを疎ましく思う事、が嫉妬というものだと思う。

比較やエゴを見据えれば、たぶん「嫉妬」はおさまってくる。

完全かどうかは不明だが。

では、良い嫉妬、というものがあるだろうか。


嫉妬がエゴにより自然発生するのであれば、それを避けることは困難だ。

で、目の前、あるいは自分の心に生まれた「嫉妬」をベースに、「嫉妬を生むような要素を取り込んだり、実現できる自分」をめざすきっかけにすることはできるだろう。

例えば私の場合、優れた論調を備えた文を読むと、「ああ、自分にこんないい文章は書けないだろう」というような嫉妬の念が出ることがあるようだ。

また、素晴らしい絵を見ると、「ああ、自分にこのような素晴らしい絵が描けるのだろうか」と思う。

で、そこで安易に「模倣」に行ってはいけない。だが「模写」はいいだろう。

ここが微妙でキモであろう。


本が高価であったころ、学びに飢えた人は欲しい本の筆写をして自身のものとした。司馬遼太郎が描く「花神」、大村益次郎もそんな人として描かれていた。

だが、待って。筆写すれば、頭に幾分か入ってくる。早く返さねば、という焦りがブーストを生む。

筆写した本を複数造り、それを売って金を得る人もあったという。

複数作れば「復習」となる。


かのデューラーも、徒弟時代を過ぎた20歳前後のころ、ドイツからイタリアにモラトリアムで渡り、イタリア絵画を模写したという。こうした模写が基礎体力となり、のちの独自の画風へと昇華する。

嫉妬、あせり、自分はできていない、という忸怩たる思い。

これをうまく扱えば、将来の自分をよりチューンナップする機会にできるのだ。

であれば、嫉妬やエゴもつかいよう、ただエゴを避けて、嫉妬を持たない、というよりは、直視して取りこむべし、というのは、かの宮崎吾郎監督が生んだ「ゲド戦記」でも感じた教えである。

(ゲド戦記は結構好きですね。まあ、原作が大好きですから)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。