教科書に載っているような文豪は、なんというのか勉強と直結している感じがして、その作家のことを知ることは損であるような気がしてきた。
だがその心理的ハードルを越えてまあ、読んでみれば、なぜ彼らが文豪と呼ばれるのか、が垣間見える。そしてもちろん作家たちは結果的に「文豪」となったのであり、多くは死後の評価であるわけであり、時代時代でみれば単なる流行作家であった、といえるのかもしれない。
たぶん村上春樹も時間が経過すればそうした世界へ行くのだろう。
いわゆる作品からの流れで、良い作品をしってからその関係者を芋づる式に知ってゆく、ということがある。最近では片山廣子(松村みね子)だ。かなしき女王、という珠玉の手触りのある作品、フィオナ・マクラウドという女性名で発表されたアイルランドの幻想譚に接したとき、はるかかなたの過去にこの物語を訳した女性のことが気になったところ、思わぬところでいろいろなつながりが出てきたわけだ。
まずは芥川龍之介。
渋沢栄一に関係する大牧場・牛乳生産者の息子で生まれるが、ほどなく生母が発狂し、その姉妹に育てられる。母は邸宅の2階でひっそり暮らし、求められれば狐の頭をした人物の絵を描いてくれる。
大正の作家、というと、あの白黒写真を見ると幻想の彼方の住人という気がしたものだが、彼が学生時代神田でウイリアム・ブレイクの受胎告知の図(どの図かは不明)も複製を購入したがゆえに新宿までの電車賃がなくなった話や、その絵を額装して書斎に掛けていたこと、
あるいはそもそも芥川は現在の東大英文科にあたる学科の卒業生で、海軍の英語教師もしており、卒論は(関東大震災で焼失し、内容は不明ながら)英社会運動家のウィリアム・モリスをテーマとしているので、なんとなく作風から受ける和風、仏教系という(個人的)印象とはだいぶ違って今はイメージしている。
モリスは1896年に62歳で亡くなっているが、芥川が卒論を描いた1916年からすると20年前の「身近な」存在でもあったであろう。どちらかというとアーツ&クラフト運動がイメージされ、ラファエル前派などともからむ芸術家という印象だが、ユートピアだより、といった著作もあり、総合的な面もあったとも思う。
またロンドン生まれの英国人画家、ウイリアム・ブレイクは1757年に生まれ1827年に亡くなっているので、これも今の感覚よりもより身近な画家であったのだろう。個人的にもかのトマス・ハリスの「レッド・ドラゴン」の表紙で印象的なブルックリン美術館が所蔵する『巨大なレッド・ドラゴンと日をまとう女』を知ったことを契機に、彼のものすごい熱量を持った作品群を知り、愛好している身としては、芥川の感性に非常に共感を持つところだ。
印象であるが、ブレイクの作品はどちらかというと旧来のものにはあてはまらない新しい構図の物が多いので、クラシックな受胎告知の構図に当てはまる絵がすぐには把握できてはいないのだが、今後わかったら楽しいだろう。
そう、自殺のことであった。
芥川は様々な要因があり、精神面でも不安定であり、自殺の前の時期には10歳ほど若い文夫人(芥川自殺は35歳)が、死んでいるのではないか、と不吉な予感を得て、2階の書斎に駆け上がる、といったこともあったようである。
1927年4月7日には文夫人の幼馴染で3歳ほど年長、結核を患っていたため結婚していなかったため龍之介の秘書兼話相手であった平松麻素子と帝国ホテルで心中を試みて失敗している(麻素子の通報による未遂)。その後再度帝国ホテルで自殺を試みているようだ。
それから2か月ほど経った7月4日に服毒自殺している。
没後発見された、大学時代の同級生で同じ漱石門下、1916年には「新思想」を創刊した久米久雄宛とされる遺書が、パブリックドメイン、著作権フリーで読めたので、転載してみる。
文中のマインレンデル(マインレンダー)はショーペンハウアーに傾倒しているようだが、そのショーペンハウアーはウパニシャッドに影響を受けている。仏陀やエックハルトと自分は同じことを述べている、とも言っている。
エックハルトといえば、異端とされる審査に向かう途中で亡くなった、これも神との同一を説く神父であるし、ウパニシャドや仏陀にもそうした傾向があるだろう。
そして「エトナのエムペドクレス」。ドイツ詩人のヘルダーリンは、詩人エムペドクレスが神との同一のためエトナ火山へエムペドクレスが飛び込んで自死した、という戯曲を創作したという。
このあたり、生の無意味と神との一体化、ということあたりが、この龍之介の遺書から、立ち上る考えであるように思う。
(私見ですが(笑)最後で否定しているようですが、逆に濃密な感じがします)