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母のこと

母のことを書こうと思う。

ほがらかで呑気者で稼ぎの少ない父と結婚し、40歳で私を産んだ母の話だ。

記憶の中の母はいつも働いていた。
本当に朝から晩まで働いていた。
ソファに座ってぐったりと居眠りをしていたし、ひどい時は立ったまま眠っていた。
もっとひどいと運転中に寝てしまったり、疲労で嘔吐してしまったこともあった。
私と一緒に居るより仕事をしている方が好きなのだと思って不貞腐れたこともあったけれど、母は私たち兄弟の学費を稼いでいたのだった。
3兄弟とも、母の貯金だけで私立の大学に通った。奨学金は借りなかった。

母はいつもコーヒーのにおいがした。
1日に5杯も6杯もコーヒーを淹れてそれを飲む。
驚くべきことに、他の液体を摂取しているところを見たことがない。

母親らしくない母だった。

末娘の私が社会人になるのを見計らったように、母はがんになった。
乳がんだった。
あっという間に体中に転移した。
狼狽える子供たちに母は言った。
「お母さんが居なくても、皆さんもう大丈夫でしょう」
兄弟の中で1番お喋りで調子の良い私が、何か言って茶化さなくてはならなかった。
そんな時に限って私の喉は何かが詰まったように苦しくなってしまって、何も言えないまま、しきりに目玉を動かしていた。
父はというと、同じようにギョロギョロと目玉を動かしていた。
こういうしょうもない所は、全くもって父の遺伝である。
大切なことはいつも母に任せて、私と父はゲラゲラ笑ってばかりいたのだ。

私たち家族は誰も、がんになった母を慰めたりしなかった。
「お母さん死なないで」
「お母さん気をつけて」
「お母さん大丈夫だよ」
なんでも言えたはずなのになにも言えなかった。
そのどれかを口に出してしまえば最後、母が自分より弱い存在になってしまう気がして怖かった。
私にとっての強さは母だった。
私の中に強い部分があるとすれば、そのすべては母の遺伝であると信じたかった。
母の血が流れていると思うと、何でもできる気がした。

紛らわしい書き方をしたけれど、母は今も生きている。ぴんぴん元気というわけにはいかないが、持ち前の知識とスタミナを活かし、果敢に病と戦っている。
時折遺産の話をはじめたりするところを見ると、本当は心細いのだと思う。
当然である。
自分が5年後に生きている確率が数%しかないなんて、そんなことに耐えられる人間は居ないのだから。

私はまだ言えずにいる。
「お母さん死なないで」
最期まで言えないかもしれないと思う。
言わない方がよい気もする。

何のオチもない、モヤモヤとした話である。




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