黒い手袋(ダスト・エッセイ)

 ホームに降りようと階段へ向かうと、大勢の乗客が下から昇ってくる。電車が着いたばかりで、まだ停車しているかもしれないという期待が膨れ上がる。俯く様に昇ってくる人々にぶつからない様に気をつけながら、小走りで降った。


 きっと、この人の流れの中で誰かが転んでも、その後ろの人は見事に避けて追い抜いて行くのだろう。逆走する僕が転んだら、もっと迷惑がられるだろうと思った。



 大船駅では、事故がなくとも、よく電車が少し長めに停車している。5番線に停車していた湘南新宿ライン小金井行きも、そうだった。結局、僕が座席に着いてから、3分ほど停車していた。9時50分に、電車は大船駅を出発した。


 車両には、座席が埋まらない程度に人がいた。人と人の間にあるいくつかの空席に座ることを選ばない乗客が、何人かドアの側に立っている。むしろ、僕を含めた座った乗客たちが、ドアの側に立つという選択肢を選ばなかったのかもしれない。



 僕の目の前には、30代半ばくらいかと思われるオフィス系のフォーマルな格好をした女性が、脚を組んでスマートフォンを操作している。彼女の左横の席は空いており、その席の足元に黒い手袋が落ちている。


 そこに、70代前半らしき男性が近づいてき来た。アウトドアスポーツ系のウィンドブレーカーを着ている。彼は女性に話しかけた。穏やかな表情と口調で、その黒い手袋を、掌を上に向けた腕で指しながら、これはお姉さんのものですか、と尋ねた。


 尋ねられた女性は、冷静で、愛想の良い表情で、男性の目を見た。そして、違います、ありがとうございます、と微笑んで答えた。男性は、そうですか、良かったです、と微笑み返した。


 男性はそのまま席に座り、黒い手袋を、踵で座席下の奥に追いやった。


 お互い微笑みを緩やかに解き、女性は再びスマートフォンを操作し、男性はクロスワードを始めた。


 僕は、それをただ眺めていた。


 黒い手袋は、もう僕らの視界に入らない。


(2024年3月28日投稿)

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