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わたしの信仰告白

私の信じるものの話をする。

私は、母がプロテスタントのクリスチャンで、その信仰を継承した、いわゆる宗教2世だ。ちなみに祖母は代々のカトリックで、それも合わせるとそこそこ長いクリスチャン家系。

お母さんのお腹にいるころから教会に通い、実際の家と教会、ふたつの家があるような環境で育った。
当時はそれをうとましいとすら思う時もあったけど、今振り返れば自分の帰る場所が複数あることは幸せなことだし、今の私が造り上げられる過程において、家庭と教会でそれぞれ受けた教育・思想は重要なものだ。

何かを信じたり大きな決断にいたった経緯を人が話す時、よく更生ストーリーやシンデレラストーリーのようなものが語られるけれど、私の信仰にはそんなものは特にない。この体験を通して信じましたなんて劇的瞬間も特にない。
私にとって神様という存在は、私が生まれたと同時に私の目の前にありありと現れていたし、生活にことごとく溶け込んだものだからだ。

生活の中で、常に神様への問いや願いが生まれる。それを、祈りをとおして神様に語りかける。
だから、小さい時から”小さく祈る”癖がついている。
運動会、文化祭、受験、プレゼン、試験、大事な人と話すとき、緊張するとき、傷つけ傷つけられたとき、色んなときに、「ちょっとやばいなぁ」となったら耳元でこちょこちょと「祈っとけ」と語られる感覚がする。
あるときはすかさず、あるときはためらいながら、神様に10秒くらい耳打ちする。すると、さっきまでばたばたしていた心が、定位置に戻るような感覚がする。

正直、祈った通りにならないことが多い。それに怒ったこともたくさんある。けれど振り返って、その結果が美しくなかったことはなかった。
生きていくほど、昔の色んな失敗が今への伏線であったことに気づき、「祈りの答え」の意味が分かるようになる。
こうやって神様と私の対話が生まれるから「信じざるを得ない」状況であり続けている。
たとえ「それは認知の仕方の問題でしょう」と言われたとしても、応答があると感じるものを「ない」というのは、私には難しかった。風だって、見えなくても吹いた心地があるからあると認知せざるを得ないではないか。

高校を卒業してから、同じ神様を信じる仲間が増えた。
友だちと話す中で、各々の人生に様々な形で「見えざる手」が介入していることに気づけた。
神様はみんなの神様であり得ることをその話たちを聞きながら実感した。

信仰は極めて個人的なものだ。
とはいえ私はそれを母から、いや母の代より昔々から守られ、段々と引き継がれたものとして大切にしている。そして同じ真実を、世界のいろんなところで信じる人が多くいることをうれしく思う。
そうやって、神様に想いを馳せるとき、世界が一つであり連帯を持つことを実感する。


なぜ神様がいる前提で話ができるのか、なぜ目に見えないものを信じられるのかと言われる。
けれど逆に、神様のいない人生は私にとって全く想像のできないものだ。

自分の強い信条を自分で守り抜くよう生きていくことも、愛する人やものごとのために尽くして生きることも美しい。けれど、その根拠はなんだろう。
むしろ、不安定な自分や、社会で生ずる大なり小なりの力やものごとを、自分の人生の柱、生きがいにできるなんて、私は逆にすごいと思う。
私は自分や自分以外の人間やこの世界にあるいろんなものの脆さや汚さ、様々な限界を重々にわかっているし、そんなものを一番にして、それらのなかに真実を見出して生きることはできない。

とはいえ、本当に何も信じずに生きるなんて不可能だ。だってこの世はなんだかんだ信頼という契約によって成り立つ。信頼を担保するために、様々な方法を編み出す。法とか経済システムとか文化とか。
けれどそれはやっぱり不十分で、私たちは色んなことを信じたり不安がりながら生きている。

神様がいる、それが一番の唯一の本当である。
この世の永遠や本当や善や正義や美しさは、神様だけがにぎっている。

私は、このひとつ大きな希望だけを根底に持つことで、このどうしようもない自分でも、このどうにもならない世界にいても、なんでもやろうと思えばやれるし、行こうと思えばどこまででも行ける気がしている。それはだれにも負けない私の強さだ。

もちろん、いつでもその強さを持つことができる訳ではない。けれど暖炉の奥でいつも炎が燃えるように、必要なときに備えてじわじわと燃えている。

存在物は全て汚さをはらんでいるのに、それなのに、
こんなに美しい景色、美味しい果物、胸躍らせる様々な文化や知識、素敵な人々、それらを機敏に感じる自分が存在している。
それらが神様という監督なしに存在し輝きを放っているなんて、今は到底思えない。
それら存在が絶妙なバランスすぎて、自然にできたものだとは言いがたい。

これらの思いが本物であると信じ続けたい。
そう思い続けることが、私の信仰。


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