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私が物を書く原点 -2- 脱線先生と私

今回は、私が物を書くということに、おじいちゃん(前回 -1- は こちら)と同じくらいの影響を与えてくれた先生の話をしていこう。

日記の宿題

小学3年生、新学期。

これから2年間受け持ってくれることになった担任の先生は、私たちに

「毎日日記を書こう」

という課題を出した。

毎日、何行でも、何でもいいから、日記を書いてくること。

それが宿題の1つだと。

最初、教室は「えーーー?!」「やだーーー!」の大合唱だったはずだ。

3年生になったばかりの私たち、今までは夏休みの絵日記ですら、苦戦していただろうお年頃だ。

時々書かされる作文や絵日記の文末と言えば「たのしかったです。」「うれしかったです。」「よかったです。」で、語彙力という言葉の存在すら知らない子どもたちだ。

それなのに、毎日、日記を?!しかも何か書いてもいいって、逆に何書いたらいいのー!

番付表だと?!

そんな私たちの心の中なんてお構いなしに、先生は続ける。

「毎月集計して、先生が毎日発行する学級通信に『日記作文相撲』の番付表を出します。また、毎日何人かの日記を学級通信に掲載します。」

『日記作文相撲?!』

なんだそりゃ?

さらに私たちは困惑しただろう。(自分のことなのになぜ推量かというと、そこまでの細かい感情記憶が全くないからだ(笑))

概要はこうだ。

毎日書かさず日記を書いてこれたら 31勝0敗で「横綱」のとかろな名前が載り、1日忘れたら 30勝1敗「大関」、という具合に続いていく。

こうして私たちは、2年間、日記という土俵で四股を踏む、○○先生の○○部屋に突如放り込まれた力士になったのだ。

先生からの学級通信

私たちに毎日の日記を課した部屋の親方、先生は、と言えば。

授業の合間にすぐ脱線して他の話をしてくれる「脱線先生」であったけれども。

耳で伝えてくれるだけではなく、毎日、B4サイズの見開きで何ページにも及ぶ手書きの学級通信を、私たちに配った。

 内容は、先生の自己紹介に始まり、3年生という小学校の中学年になるにあたり意識してほしいこと、授業で脱線した話のまとめ、保護者へ向けての先生の教育観。

先生が読んで、いろんな意味でみんなと共有したいと思ったみんなの日記を、数行の感想や意見と共に掲載。

運動会、学芸会など、行事のあとのクラスみんなの一行感想まとめ号。

ときには、私たちに原稿原紙を配り、私たち自身が、自己紹介や自分の誕生日特集号を、1人1ページ担当することもあった。

そうやって先生は、私たちに与えた課題の数倍もの量の文章を、私たちに毎日、見せてくれた。

慣れと俯瞰

おじいちゃんのように、手書きは途中からワープロ打ちに変わり。

3年生版、4年生版と、それぞれ5、6cmのぶ厚さになった学級通信は、年度末に先生が外部に頼んで製本してくれて、みんなに配られた。

今でも私は、それを手元に持っている。

今から見返すと、当時の私の日記は、記憶に残っていたより、大した文章力ではなかった(笑) (思い出とは、知らず知らず美化されてしまうものなのかな)

私は小学校の頃、とにかく忘れ物が多い人で。

日記も、せっかく書いても持って行き忘れたり、書くことが思い浮かばなくて書いて行かなかったことも少なくなかった。

横綱になれた回数は、たぶん2年間24ヶ月のうち、半分もいかなかった気がする。

だから文章力がついていかなかったのも、無理はない。

そんな私でも。

慣れというのはすごいものである。

毎日の日記という宿題は、書くことに対する「めんどくさいなぁ」「嫌だなぁ」という気持ちを、2年間のうちになくしてくれたのだ。

そして、先生や、友達、誕生日特集号のみんなのお父さんやお母さんからの言葉。

いろんな人の文章をたくさん読むうちに、この時期から少しずつ、自分の文章をも、俯瞰で見られるようになっていったのではないかな、と思う。


だめだ、長い(笑)

次回につづく!









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