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食事と音楽と男と女 #4

たくさんの飛行機が離着陸していく。

私たちは並んでそんな空を見上げていた。
佐橋さんに、どれくらい旅したのか、訊いてみた。

「50カ国は行ったかなぁ」
「すごい。一番好きな国はどこですか?」
「やっぱりフランスかな。紗織さんはフランス行ったことある?」
「卒業旅行で友人と行きました、パリに。でもそれだけです。佐橋さんは何度も行ってるんですか?」
「うん。なんちゃって短期留学もしたことある」
「えー、すごい!フランスのどういう所が好きなんですか?」
「そうだな…質素とプライド、かな。Frugalité et fierté」
「あ、フランス語」

佐橋さんは少し照れくさそうに笑った。
「質素とプライドって、どういうことですか?」
「行ってみて感じたことだから、説明が難しいな」

街の景観や、人の身なりとか、そういったものに感じたのだという。それは日本ではあまり感じられないものだ、と。

「私がパリに行ったときは、とにかくカフェとかエッフェル塔、モンマルトルの丘とか、そういう所しか見てなかったです。なんかちょっと恥ずかしい」
「恥ずかしいことないよ。入口は僕だって似たようなものだし」

頭上をかすめる飛行機は、どこの国から来たのだろう。

「佐橋さん、海外で暮らそうと思ったことはないんですか?」
「そもそもプログラム書く仕事をしようと思ったのが、プログラム言語は世界中で通用すると思ったからなんだ」

でも結局日本で仕事してるけどね、と笑った。

最近は旅してないんですか? と尋ねると “そうだねぇ。行きたいんだけどね” と言って空を見上げた。ちょうど離陸していく飛行機が上空を横切る。

その瞳は遠くを見つめている。
私はその横顔を見つめている。

東の空が鳶色の上に藍が重なっていく時間を、言葉なく過ごした。

何を考えているのかな、と思う。

あまりにその時間が長かったせいか、佐橋さんが私の方を向いた。目が合う。
その時、私はどんな顔をしていたんだろう。

不意に彼の腕が伸びてきて、私の頭を抱え込んだ。

「あ」

私は小さく声に出す。あの腕が今私を抱えていると思うと、全身が熱くなるきがした。

私は自分の腕を、彼の細い身体に巻きつけていいものかどうか、少し迷った。

そうこうしているうちに、佐橋さんの声が頭の上から落ちてくる。

「紗織さんに、話しておきたいことがある」

「何でしょうか」

「僕には、まだ別れていない彼女がいる」

咄嗟に彼を見上げる。

「でも、もうしばらく会ってない。すれ違いも多いし、終わりにしようと思っていた」

私はさすがに驚きと衝撃で動揺して、彼を見つめた。

「彼女と終わりにして、紗織さんと付き合いたい」

私は目を閉じた。

「それって…古くなったものより、突如目の前に現れた新しいものの方が魅力的だから、ですか? 私も古くなったら、同じように終わりにしますか? 後でやっぱり古い方の魅力に気がついて、取り戻そうとか、そういう気持ちになったりしませんか?」

私の言葉に彼は意表を突かれたように唖然としたが、すぐに困ったように微笑んだ。

「そんな風には思ってないよ。じゃあ、彼女ときちんと別れるまで、待ってもらえますか」

私は妬きもちとひがみで強気なことを言っただけなので、待ってと言われたら待つしかなかった。
いえ、言われなくても待った。

はい、と頷いた。

* * * * * * * * * *

陽が落ちて、ナイトフライトの飛行機をしばらく眺めたあと、晩ご飯を食べに移動することになった。

車に戻って、佐橋さんが再び音楽を流す。
大橋トリオの「赤い傘」が流れると、涙が溢れてきた。

「紗織さん、どうして泣いてる?」

走り出す前に、佐橋さんが訊いた。何でだろう、わからないです。私は答えた。

「音楽のせいかな」

そう言うと彼は微笑んだ。
「ちょっと飲みに行こうか。車、返してから」

「佐橋さん」

私は流れる涙をそのままに、真っ直ぐ前を向いたまま言った。

「あなたが好きです」

彼はこちらをちょっと見ると、指で私の涙を拭った。
そして前に向き直り、彼も前を向いたまま、言った。

「僕も紗織さんのこと、好きです」

車は緩やかに滑り出した。

私は涙が止まらず、ひっくひっくと泣いていた。
佐橋さんは困ったように微笑む。

「泣かないで。安心して。僕も同じ気持ちだから」

不安だからじゃない。もちろん不安はあるけど。
こんなにも優しい時間に彼がいることが、嬉しいのだと思う。

優しい時間なのは、彼がいるからなのかもしれないけど。

車窓を流れるの湾岸の景色を観ながら、こんな優しい時間が永遠に続くことを願った。

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あれから数日経ち、佐橋さんは時折メッセージや電話をくれた。
彼女に別れ話をしたと言う。“きちんと会って話をしたい” と言われた、との事だった。
具体的にいつ、と訊くと、回答がないらしい。

不安が胸をつのる。
彼女は、別れたくないんじゃないかって。

佐橋さんが彼女ときちんと別れるまで、会いに行くのはやめようと思った。
けじめ、というとカッコいいが、ただの強がり。意地張ってるだけ。

”安売りはしないよ” と言いたいが、そもそもそんな高級な女ではない。
だから、ただの強がり。

さらに1週間ほどたち、佐橋さんと電話で話していた時、彼が言った。

『サトルが、最近紗織さん来ませんね、って寂しそうにしてたよ』
「たまには顔出さないといけないね」
『もしかして、俺を避けてるから来ない?』
「避けてるというか、ちゃんとしてから会うようにしないといけないかな、と思ってるだけ」
『そうだよな…』

相変わらず、連絡はないらしい。でもこちらからしつこく連絡するのも嫌なので、そのままにしているという。
『とはいえ、だよな…』

別れきってなくてもいいじゃないって、正直思う。始めてしまえばいいって。
私がなぜ意地を張っているのか。彼の体裁を気にしているのか。
でも誰に対する体裁だって言うんだろう。

そうじゃない。私の余計なプライドなんだと思った。

* * * * * * * * * *

佐橋さんが店に出るのは水・木・金と聞いたので、わざと火曜日に店に行ってみた。

中村くんが満面の笑顔で迎えてくれる。
「久しぶりじゃないですか、紗織さん。お仕事忙しいんですか?」
「うん、ちょっと、ね」

そんなやり取りをしてカウンターに通される。
カウンターの向こうから田村さんが私に言った。

「佐橋なら今日はいないよ」
「あ、そうなんですね。いや、そういうわけじゃないんですけど…」

何を弁明しているのかわからないけど。

「紗織さん、いつものでいいですか?」
そう声をかけたのは中村くんだった。
「うん。お願いします」
「はい、ただいま!」

いつも明るくて爽やかで、いい子だな、と思う。

1杯目の泡を飲んでいると、中村くんが話しかけてくる。

「今日はガッツリ系にしますか? それともお酒のおつまみ程度にしますか?」

私は少し悩んで「今日は食べます」と答えた。
中村くんは、満面の笑顔で「了解しました!」とカウンターの向こうへ下がっていった。

最近は料理の名前でオーダーしなくても、何か出てくるようになっている。常連のすごい仕組みに加わった、と思う。私に好き嫌いがそんなに無いことも幸いしている。

真夏の火曜日はワインは向かないのか、店はそれほど混んではいなかった。そのせいか中村くんがよく話しかけてくる。

「今日は佐橋さん、お休みなんですよ」
「さっき田村さんにも言われたけど。彼がいないとやっぱり大変?」
「今日は平気っすね。火曜日は割とヒマなんですよ。ナオトさんもそれわかってて店手伝ってると思うんすけどね」

そうだった。佐橋さんの名前は”直人”っていうんだった。

しばらくして、ローストビーフにラタトゥイユが添えられた一皿が出てきた。それとバゲットにオリーブオイルと、塩。

「いただきます」
小さく手を合わせて、ハッとする。佐橋さんは、こういうところを見ていたんだな、と思い出す。

お肉はジューシーで、柔らかかった。ラタトゥイユもたくさんの種類の野菜が入っていて、贅沢だった。

「これ、僕も後でまかないで食べるんですけど、どうですか?」
「うん、すっごく美味しいよ」

そういうと中村くんは、目尻を下げてとても嬉しそうに笑った。
「僕も楽しみだなぁ。それに今日紗織さんが来てくれて本当に嬉しいです」

* * * * * * * * * *

その夜。ベッドに潜り込んで、どれくらいたっただろうか。
眠れない。

寝返りを何度も打つ。
時計を見ると、1:14。

ため息をついて、ベッドサイドの灯りを点ける。

不安と逢いたさで、胸が苦しい。

スマホを手に取る。どうしようか、と迷う。
この時間ならまだ起きてるかもしれない。寝ているならそれでいい。

でももし、起こしちゃったら? 悪いかな。

結局メッセージを送ってみることにした。

まだ起きてますか?

画面を伏せてベッドにスマホを置く。小さくため息をつく。
しかし、程なくしてスマホがブルっと震える。着信。

慌てて画面を見る。佐橋さんからだった。

起きてますよ。どうしました?

どう返信しようか、少し考えていると、続けてメッセージが届く。

今、話せる?

それには "はい" と返す。すぐに電話をかけてきてくれた。

『どうした?』

優しい声に「眠れなくて」と伝えた。「仕事、してたんですか?」
『俺? うん。ちょっと片付けておこうかなと思うタスクがあって』
「そうでしたか」
『眠れないって、何かあった?』
「いえ…声が聞けて、ちょっと安心しました」
『…不安? 俺のせいかな』

針で突かれたような気分だった。言葉に詰まる。

『ごめんな。でも心配しないで』
「…佐橋さんのせいではないです。謝らないでください。大丈夫です」
『電話だからって嘘つかないで』

泣きそうになる。

『俺も紗織さんの声聞いてると落ち着く。声が聞けて良かった』
「そんなこと言われたら照れます…。でもありがとうございます。眠れそうな気がしてきました」
『店に来ればいいのに』
「今日、行きました」
『え、今日?』
「中村くんが、寂しがってたって、この前話していたじゃないですか」

電話の向こうでしばらく沈黙がある。
『俺には会いに来てくれないの』

逢いたいに決まってるじゃない。
でも。

私も沈黙する。
『ごめん。それも俺のせいだよな』

その後、もう明日に響くからお休み、と言われ、電話を切った。

暗くなった画面をしばらく眺めた後、スマホを伏せてベッドに置く。

ライトを消して、目を閉じた。

結局、眠れそうにない。

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#5 へ つづく

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