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食事と音楽と男と女 #5

さらに1週間ほどたった金曜の夜。

佐橋さんの彼女は、相変わらず ”きちんと別れるための会う約束” に応えないでいるらしい。

私は店に向かった。佐橋さんがシフトに入っている週末に。

中村くんが出迎える。本当に夏休み中は毎日シフトに入っているみたいだ。
「紗織さん、お疲れさまです!」

いつものカウンターの隅の席に通される。
向こう側にいる佐橋さんと目が合った。サッと目を逸らされる。

中村くんがオーダーを取りに来る。
「週末までお仕事お疲れさまです。今日はガッツリ行きますか?」
彼の笑顔が、今のこの空間では救われる思いだった。
「今日は軽めにしようと思う」
「かしこまりました!」

カウンターの中に入り、田村さんと佐橋さんに何か伝えて、彼が私をチラリと見て頷いた。

出てきたお料理は、冷たいじゃがいものスープ、ヴィシソワーズ。
サラダと、オレンジソースのかかったサーモン。

「このお料理には、ロワールの白のミュスカデが合います!」
「中村くんもワインのこと、だいぶわかるようになってきたみたいね」
「えへ、すみません。佐橋さんがそう言ってました」

そう言って照れくさそうに笑う。カウンターの向こうにいる佐橋さんを見たけど、目は合わなかった。
「なぁんだ、まだまだか。じゃ、それでお願い」
「かしこまりました!」

その白ワインは、カウンターの向こうから、佐橋さんが差し出してきた。
「あ、ありがとうございます…」
受け取る時に、ほんの少し手が震える。彼は黙ったままだった。気まずそうな顔をしている、ように見えた。気のせいか。

「紗織さん、仕事忙しいんですか? せめて週1くらいで、食べに来てくださいよ」
食べ終えた後に中村くんが声をかけてくる。
「そうね、ちょっと落ち着いたら」
「ぜひ! 僕、今なら毎日いるんで!」

中村くんは屈託のない笑顔を向けてくれる。
こういう笑顔が今の自分にはなかなか出来ていないんじゃないかって、ふと思う。

席を立った時、佐橋さんと目が合った。
私は泣きたい顔をした。多分、だから彼も同じ顔していたのだと思う。

会計時に中村くんと更に二言三言交わし、店を出た。
胸がつーんとする。困った。

ほんの少しの間、店の前で立ちすくんでいると、勢いよく店の扉が開いて佐橋さんが出てきた。
「…!」
不意打ち過ぎて驚いて声も出なかった。彼も私がそこにいたのが意外だったのか、「おぉっ」と声を上げた。

「紗織さん。仕事終わったら、連絡します」
そう言って彼はすぐに店の中へ消えた。

わざわざ、それを言うために? 
なにか進展があったのかな。

時計を見る。21時。あと1時間か1時間半か。

私は家に帰らず、店の近くにある公園に向かった。
ブランコに座る。

公園を横切る仕事帰りのサラリーマン風の男性がジロリと見ていく。私は目を逸らす。
ベタつく夏の夜。肌にまとわりつく熱気。

22:21、手の中でスマホが震える。佐橋さんからの着信だった。

『家にいる?』

彼はそう訊いてきた。
「いえ…お店の近くの公園にいます」
『え? そんなところに? 今すぐ行くから、待ってて』
電話を切った後は、鼓動がどんどん速くなる。

佐橋さんはすぐにやってきた。走って。
息を切らしながら私の前まで来ると、少し強い口調で言った。
「こんなところにいたら、危ないよ」
「この方がすぐに会えると思ったので…」

彼は頭を起こして私を見上げた。


「その気持ちは嬉しいけど、夜の公園は危ないから」
「ごめんなさい」
「なかなか2人で会えなくて、もどかしくなって…。もちろん、俺がはっきりさせてないからだって、わかってるけど」
「私だって、会いたくても我慢しないといけないと思っているんです」
「じゃあ今日はどうして来た?」

どうしてだろう。

「俺だってもう、目の前に紗織さんがいるのに」

佐橋さんはそこで言葉を区切ったが、ポツリと言った。

「うちに来て」

* * * * * * * * * *

店からほど近い場所にあるマンションの8階が佐橋さんの部屋だった。

廊下にあるキッチンを抜けると、広めのワンルームの窓際にベットが置かれ、その横にワークスペースがあった。ノートPCにモニターが2台。座り心地が良さそうなオフィスチェア。

男性一人暮らしにありがちなイメージだった黒々しい家具がなく、少し安心した。

「ベッドのとこ、ランタンみたいな素敵なランプが置いてありますね」
「それ、スピーカーなんだ。Bluetoothの」

佐橋さんがお尻のポケットからスマホを取り出して操作すると、ランプが反応して、音楽が流れ出した。
HYUKOH(ヒョゴ)の "Graduation" って曲だよって、教えてくれた。

「HYUKOHって韓国のバンドなんだけど、なかなか骨太な感じがしてカッコいいんだ。まだ若いメンバーなのに演奏もすごく上手いし」

そう言いながら佐橋さんが薄く窓を開けると、8階だからか心地よい夜風が入ってくる。
こんな夜にHYUKOHの音楽はよく合ってる。都会的な、メロウな音楽。

「まだまだ夜も暑いな。はやく秋になればいいのに」

そうですね、と返事をした時、窓からこちらに振り向いた彼が、私を抱き寄せた。

「今日、紗織さんがサトルと仲良さそうに話してるの見て、ちょっとイライラした。サトルも妙にテンション高かったし。この前、俺がいない日に店に来たって言ってたし」

そんな事を話す佐橋さんを、かわいいな、と思った。

「妬いているんですか? 私、もっと複雑な気持ちでいるのに」

少しイジワルな言い方をしてしまったと思った。彼は「そうだよな」と言いながら、抱きしめる腕に力を入れた。

「本当は、彼女とはもう一方的に終わりにさせたい。伝えていることに対して返事してこないのなら、俺の中では終わってるのだから、もういいじゃんかって思う」

BGMが次の曲になり、抱きしめていた腕の力が少し抜ける。

「これ、いい曲だよ。”LOVE YA!“っていう。恋人たちのための歌。俺、すごく好きなんだ」

耳元で佐橋さんがそう教えてくれる。

「俺は紗織さんにとって悪者かもしれない。でも俺、今のこの中途半端な状態でも、もう止められない。でもそれでもいいやって思ってる。いっそこのまま2人で、行けるところまで行ってしまえばいいって。ズルい男だって思う?」

「ズルいのは…」

私は彼の目を見つめた。言おうとしている言葉は、口にはしなかった。

部屋には愛の歌が流れている。

Don't be afraid.

* * * * * * * * * *

物音と、シーツの擦れる感触でぼんやりと目を覚ますと、佐橋さんがベッドから抜けて廊下の方へ歩いていく姿が見えた。

右手側の、カーテンの隙間から明るい日差しが漏れ差し込んでいる。
「朝…」
シャワーの音が聞こえてくる。上半身を起こした私は、何も身につけていなかった。

もちろん、憶えているけれど。

カーテンを開けると、突き抜けるような青空に、夏の雲が高く積み上がっているのが見えた。
向こう正面は高い建物もなく、8階からの景色は良かった。

床に落ちた服を見て、昨日の会社帰りのままの服をまた着るのはちょっとな、と思ったけれど仕方なかった。

服を着てベッドに座っていると、Tシャツにパンツ姿の佐橋さんが部屋に入ってきた。細い脚だな、と思う。
まだ乾ききってない髪がボサついていて、普段より若く見える。

「私、一度家に帰らないと」

そういうと彼は、うん、と頷きつつも両腕を伸ばして私を抱きしめて言う。

「昼飯、一緒に食べよ。それくらいには戻ってきてもらえる?」

私は頷いた。彼は安心したように微笑んでキスをした。
髭があたって、くすぐったい。
昨夜も、そう思っていた。

玄関を開けると強い日差しが突き刺さる。

結局、こんな風にスタートを切ることになったな、と思いながら、まばゆい夏の週末の朝を歩き出した。

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#6 へ つづく



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