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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#1-9

電話で兄から「お前もオジサンになるぞ」と言われ、僕はまだしばらく20代だけどと言うと、そうではなくて叔父さん、つまり兄に子供が生まれる、という報告だった。

僕は激しく動揺した。

生物学的にも倫理的にも夫婦の間に子供が生まれるのは当たり前のことだと理解はしている。
けれどそれが兄と義姉の間に、と思うと僕の思考は途中でプツっと切れてしまう。

僕は初めて義姉を見た時の衝撃を思い出していた。

どうしてこの人が? というあの感じ。

次に結婚式で笑い合う2人を思い出した。

僕の兄さんが、全く違う世界に行ってしまう。

あの息苦しい片田舎の実家で、何も言ってくれない親父と癇癪ばかり起こす母から、僕を温かく優しく守ってくれた兄が、全く別の家族の一員となって行くのだ。

そして新しく生まれてくる子供は兄の血を分けた子供だ。

僕はそれを奪いたい衝動に駆られた。

* * *

兄のマンションの近くまで行った。時は夕方で西日が長く伸びていた。

義姉はちょうど買い物から戻ってくる所だったらしかった。
彼女のお腹は思ったより大きくなくて、おかしいな、と思った。
子供が生まれるなんて嘘なんじゃないかって。

やがて義姉は西日を受けているにも関わらず、彼女の背後が急に眩しくなったように感じた。

僕を責めるような光。

僕は兄が怒りを表したのだと思った。

怖くなって逃げた。

* * *

家に戻ると感情が様々にかき乱され、コントロールを完全に失っていた。
僕は声を挙げ、引き出しの奥に封印していたはずのナイフを手にして左手首にあてがい、掻き切った。

リストカットばかりしていた頃は、流れ出す血の温かさに恍惚の思いがしたが、今は違った。

冷たかったのだ。

そして兄がもっと怒る、と思った。

僕が約束を破ったから。

あぁ、ダメだ。ダメだダメだダメだ。
僕はダメな人間だ。
人間以下だ。クズだ。

棚に整然と並べられているタオルを取り手首に巻きつつも、PCデスクに頭を何度も打ちつけた。

僕はいなくなった方がいい。誰も困らない。

誰の記憶にも残らない人生。

* * *

気がつくと携帯が鳴っている。無視してもずっと鳴り続けているので画面を見ると兄からだった。
頭がぼうっとしている。恐る恐る電話に出て、兄の声を聞いて泣いた。

様子がおかしいと悟った兄は、すぐに行くと言って電話を切った。

兄が来る。怒られる。床は血だらけだ。とりあえず綺麗にしなければ…。
もう1枚タオルを取り床を拭いた。しかし既に乾き始めていて跡が残る。そして吐きそうな鉄の匂い。

呆然と床にへたり込んでいる所に、兄がやって来た。
そして僕の傷を見て青ざめた。そのまま怒られるかと思ったが、僕を抱き締めてくれた。
兄の身体はとても温かった。

こんな僕でも、人の身体の温かさを感じるのか。

その後は兄に連れられ病院に行き、幸い神経まで傷が達していなかったため治療は早く済んだ。
帰りにコンビニで弁当を買い込んで僕の部屋で2人で食べた。

普段は食べることに全く興味を持たないが、兄と一緒にいるといくらでも食べられそうになるから不思議だった。

兄は自分の使っていた腕時計を僕の包帯ぐるぐるの左手首に付けた。また俺がリストカットしそうになったら思いとどまるようにと。
僕には似合わない、出来るビジネスマンが着けそうな腕時計だった。
まるで兄そのものだなと思って、こそばゆかった。

ただ僕はそれをその場で「嬉しい」と伝えられない。感情が大きければ大きいほど、処理に時間がかかるからだ。

* * *

それから僕は兄の家の近くに引っ越した。

兄も毎週木曜には早く退勤してくれて、一緒に発達障がい者の交流会・勉強会に行ってくれるようになった。

僕は初めは全く乗り気ではなかったけれど、兄の方が勉強したかったのだと知り、段々と僕も受け入れられるようになっていった。

ある会で、僕はどうして両親から優しくされなかったのか、ということに向き合った。その時は兄が参加出来ず、渋々1人で行った時のことだ。

優秀な兄の存在が大きいのではないかという話になり、それこそ兄に対し強いコンプレックスを抱いて険悪になりそうだ、という人がいた。
『カインとアベル』の世界だ。

僕は「兄弟は険悪になっていない」と答えた。

気づいていないだけで心の底では兄がいなかったら、と思うことがあるのではないかと言われた。

僕は「ない」と答えた。

しまいには「兄の優しさはまやかしなのではないか」「だって一度捨てられたんでしょ」と言い出され、ブチ切れた僕は椅子を蹴っ飛ばして帰ってきた。

家に着いて、灯りも点けずに(僕は蛍光灯などの強い明るさが苦手で、夜はスタンド型のライトを点けるくらいだ)、部屋の真ん中で放心していると携帯が鳴った。

『隆次、今日は会合に一緒に行けなくて悪かった。一人で行ってきたのか?』
「途中で帰ってきた」
『…何かあったか?』
「…兄ちゃんのこと悪くいう人がいたから、頭に来て帰ってきた」

電話の向こうで小さなため息がした。

『…飯は…その様子だと食ってないだろうな』
「お腹空いてない。食べたくもない」
『じゃあ一緒に食うか。今からそっちに行ってもいいか?』
「…」

僕は少し戸惑った。
兄に対する思いがどんなものなんだろうか、というのがいっぺんに押し寄せて処理しきれていなかった。
今顔を見たら、混乱して何をしでかすかわからない。

『…今夜はやめといた方がいいかな』

しかしいざ兄にそう切り出されると、寂しくて仕方なくなった。

「嫌だ…ひとりにしないで」

兄は「すぐ行く」と言って電話を切った。



#1-10へつづく

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