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【連載小説】天国か、地獄か。祈りはどっちだ。#1-8

兄が実家の敷居をまたぐのは、本当に何年振りだったのだろうか。

兄が結婚するとのことで、嫁さんを連れて帰ってきた。
年の瀬の…クリスマスイブの少し前だった。

玄関で気配がし、僕の胸は高鳴って出迎えるために階下へ降りた。

ただ、2人を見た瞬間、僕はどうリアクションを取っていいのか、全くわからなかった。
最後に顔を見てから14年が過ぎている。もう兄は貫禄を持った大人だ。

そしてその横には結婚相手…。

正直、兄がああいった女の人を選ぶとは思っていなかった。背も高くないしスレンダーというわけでもない。特にすごい美人というわけでもない。
凡庸な女性だった。
兄にはもっと釣り合う女性がいるんじゃないか、と正直思った。

兄も結婚するには少し遅い歳…36歳だから親父より1年遅れている形だ。

その歳まで独身でいて、おそらく野心のもとに仕事に邁進して、何人も女を泣かせてきたんだろうと思ったけれど、その結果、この人なのか。

こんな人が兄を摑んだのかと思うと、激しい嫉妬が湧き起こった。
同時に興味も湧いた。
何者なんだこの女は、と。

* * *

僕は相変わらず兄が使っていた東南角部屋を占拠していた。

兄が置いていった僅かな荷物などは、逆に子供の頃の僕が使っていた狭いスペースに移されていたので、必然とそこに荷物などを置いた。

しかし、いかんせんそこは3畳ほどだから、嫁さんは客間に通された。

食事の時間になり、僕も居間へ顔を出すと、母が素っ頓狂な声を上げた。

「お兄ちゃんが帰ってくると、この子は食卓に着くんだから、まぁ。お嫁さんの前で口利かなくていいからね。どうせあなたの話は何言ってるのかわからいんだから」

兄は苦々しい笑みを浮かべ、嫁…義姉さんはどうリアクションしていいかわからない顔をしている。

僕がASDであることは流石に知っているはずだから…無理もないだろう。
厄介な男を義理の弟に持つことになって、哀れだな。

食事の後しばらくしてから、兄が僕の部屋を訪ねてきた。

これもまさに…14年ぶりのことだ。

僕たちは互いの仕事のこと、兄は今ドイツにいて、嫁さんとは国際遠距離恋愛だったこと、そして僕がアメリカで起こした銃事件のことなどを話した。

そして僕はリストカットの傷を、兄に見せた。

中学で初めてやって以来、親には見せてないし、やってないことになっている。でも僕はアメリカで男と付き合うようになってから…またやるようになった。
日本に戻ってきてからも…最近でも…。

傷口から暖かな血が流れ出すと、まるで兄が頭を撫でてくれた時みたいな、温かい開放的な気分になる。
だから、やめられなくなった。

兄の面影を追いかけるようになったと同時に、やめられなくなった。

兄は僕の腕を強く摑んで怒りを見せた。

兄だけが、僕にわかるように良いこと、いけないことを教えてくれる。
いくつになっても、それは変わらない。

ああ、やっぱり僕は兄に撃たれて死にたい。

* * *

人生で初めての結婚式に出席した。

実家に挨拶に来てから1年後、兄が海外赴任を終えて帰国したので式を挙げたというわけだ。

僕は母からここでも『誰とも口を利くな』と釘を差されていた。
釘を差さなくったって、僕は相当なアウェイだ。

嫁さんはキラキラとして幸せそうだった。第一印象とだいぶ違うので戸惑った。
兄は始終控えめな笑顔で…歳のせいかなと思ったけれど、品を感じさせた。
嫁を見るときだけ、とびきりの笑顔を見せていた。

僕は胸を掻きむしられるような気分に襲われた。

* * *

式から半年たった梅雨のある日。

もうずっと雨が続いていた。その日も朝から普通に家で仕事をしていた。
日中家には母しかおらず、僕は家の一番隅の部屋にいるため、いつも静かだった。

何の変哲もない日常。
メトロノームのように正確な日常。

しかしその日は。

気がつくと僕は駅にいた。電車に乗り、ぼんやりと車窓を叩く雨を眺めていた。
ターミナル駅に着くと東京行きの新幹線のチケットを買い、乗り込んだ。

そんな突拍子もないことはあまりしない。計画外なことは基本苦手だからだ。
僕は何かに取り憑かれていたか支配されていたようだ。

車内でもやはり車窓からの、雨に歪んだ景色をずっと眺めていた。
心臓がバクバク破裂しそうな鼓動を刻む。

19時16分、東京駅に着く。
右も左もわからない僕は、兄に電話をかけた。
東京駅にいることを告げると、会社が近くだからと、迎えに来てくれた。

突然どうしたと訊かれ、何と答えて良いかわからなかった。

気がついたら電車に乗っていてと言うと、まさかと笑った。

兄は家に来いと言う。僕は躊躇った。しかし衝動で東京へ出てきて、行くあてなどあるはずがない。

僕は義姉に会うのが怖かった。色んな意味で怖かった。

しかしこの上京をきっかけに僕は実家を出ることを決意した。
兄の家から少し離れた都内の外れにアパートを借りた。

仕事はほぼオンラインだからどこでも良かったし、本社は東京にあったから会社としても問題はなかった。

そこで兄とも少しづつ交流を持つようになっていった。

やっとまた穏やかに過ごせるかな、と思っていた。

しかし、また引き金を弾くような事件が起こる。

兄に子供が出来たことだ。



#1-9へつづく

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