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あなたがそばにいれば #19

Natsuki

日中の部屋の掃除をしていた時だった。

彼の部屋のゴミ箱。

普段ゴミ箱を漁るような事はしないけれど、その時捨てられていた “あるもの” が目に入ってしまった。

"薬の…"

ちょっとした頭痛薬かと思ったけれど、何となく拾い上げ、薬の名前を読んだ。

「ゾルピデム…?」

聞いたことのない名前だったし、彼が薬を服用しているなんて聞いていなかったから、どこが不調なんだろうと思い、その薬を調べてしまった。

私はそれを知り、衝撃を受けた。

それは睡眠薬だった。

* * *

夜。彼が帰宅した。
どういう顔をしたら良いのか戸惑ってしまう。

そう言えば最近寝る前のティータイムを彼は断っていた。
睡眠が関係しているのだと気づいた。

私は素直に訊いてみることにした。

「あのね…遼太郎さんの部屋を掃除している時に、薬のカラゴミを見つけて…」

彼は案の定、少し気まずそうにした。

「どこか悪いのかと気になって、どういう薬か調べたの」
「…ごめん、黙ってて」
「いつから…?」
「…最近だよ。ここ1週間くらい」
「そんなに眠れなくて、辛かったの…?」
「…前にも同じようなことがあって。ドイツにいた頃。寝つきが悪くなりやすい。翌日の仕事に響かせたくないから処方してもらったことがある。初めてじゃない」

少しはぐらかされた、と思った。
本心には触れないでと言っている気がした。
だからその時はそれ以上何も言えなくなった。

寝る時間になって彼が自分の部屋に入ろうとした時に、意を決して声をかけた。
"阿修羅" を追い出さなくてはいけないのだから。

「今日はそっちで一緒に寝てもいい? 薬飲んでても近くにいたら邪魔になるかな」

彼は少し思案したようだったけれど、いいよ、と言ってくれた。

子供たちは私の部屋で眠っているから、ドアを開けたままにして彼の部屋へ入った。

既に部屋の灯りは落ちていて、ベットサイドの淡い間接照明だけが枕元を照らしていた。

ベッドに潜り込んで彼の身体にすがるようにくっつく。

彼の身体は熱かった。
そして、以前よりも明らかに細くなっていた。

「薬、飲んだの?」
「うん」
「その…ゾルピデムって、強い薬なの?」
「そうでもないよ。でも飲むと割とすぐに頭がぼんやり重くなる感じ。その代わり翌朝にあまり響かない」
「そうなんだ…」

彼は抱き枕のように私を抱え、微睡んだ目で私を見つめた。

「ね、夏希」
「なに?」
「キスして」

そう言って小さく唇を突き出す。

「え…、うん…」

そっと触れると薬のせいだろうか、彼の唇も熱かった。

唇が離れた時の彼の表情を見て、私の胸がサッと翳る。
哀しみと、怒りと、戸惑いを湛えた…あの阿修羅のような表情。
彼の心が落ちてしまっている危ないサイン。

私は訊こうかどうか迷った。
どうして、そんな風になってしまったの? と。

でも訊く代わりにもう一度口づけをした。

彼は淡く微笑んだかと思うと、そのまま静かに寝息を立て始めた。

枕元の灯りを絞って、しばらく彼の寝顔を見つめる。
美しい顔だ。

付き合う前の、まだ部下だった頃からその美しさに憧れていたけれど、付き合い始めると寝顔も知る事が出来て、やはりなんて美しいのだろうとよく見惚れた。

今はあの頃より歳も重ね、だいぶ疲れている。

けれどそんな疲れた寝顔も、あの阿修羅のような表情も、恐ろしいほどに美しいと思ってしまう。

灯りを消して、邪魔にならないように少し身体を離して私も眠りに就いた。

* * *

夜中に目が覚める。
彼がうなされ、汗をかいていた。

バスルームから湿らせて絞ったタオルを持ってきてそっと肌に充てがうと、彼が目を覚ました。

「夏希…」
「起こしちゃった? ごめんね。すごい汗かいてたから」
「汗…」

彼は朦朧とした様子で目を細めた。

「うん、うなされてたんだよ」
「俺、うなされてた?」
「うん」
「そうか…」

まだ放心しているように視線が宙を舞う。

「薬飲んでも…こんなに苦しかったりするの?」
「そうだな…。夏希、悪いんだけど、自分の部屋に戻ってくれないか?」

その言葉はツキン、と胸に冷たく突き刺さった。

「…やっぱり私いると、眠るの邪魔になるかな」
「そうじゃないんだけど…ごめん」

私は自分の無力さが悔しくて悲しくて涙が溢れた。

「泣かないで。夏希のせいじゃない」

彼は指で私の涙を拭った。
でも彼の目もやはり、悲しい。

自室に戻った私は子供たちの寝顔を覗き込んだ。
安らかで天使のようとはよく言ったものだと思う。

それでも涙が零れ落ちる。

私は彼の力になれない。
彼を苦しみから救いたいのに出来ない。

悔しさで心がちぎれそうだった。

* * * * * * * * * *

子供の声で目が覚める。朝5時。
慌てて起き上がり、部屋を出る。

彼の部屋は静まったままだった。

不安な気持ちを押し込めて子供の身支度と朝ごはん、さらに "量少なめ" のお弁当の準備に慌てて取り掛かった。

程なくしてバスルームで音がした。彼が目覚めたのだろう。
あの後眠れたのかはわからない。

しばらくして彼がリビングに入ってきた。
既にネクタイを締め、いつも通りの出勤前の "仕事モード" の表情だった。

私は昨夜とのギャップに少し面食らった。

「おはよ…」

眠れた? と訊くのは野暮な気がしてやめた。

彼はテーブルに付いている娘と息子の頭を撫でて挨拶している。
それもまたいつも通りの光景だった。

私だけがまるで、切り取られたような気がした。

「今日はお弁当、あるの?」

彼にそう訊かれ、思わずハッとする。

「あ、うん。ある」

そう言うと笑みを浮かべた。
普段と変わらない。なのに。

そんな私の様子を察したのか、彼は私の頬を撫でて言った。

「大丈夫だから」

どうしてだろう。
泣きたくなる。

こんな風に触れられる距離にいるにも関わらず、どうしてなんだろう。

彼は何も言わない。
「じゃあ、行ってくるね」と家を出る。

子供がいるのも構わず、私は部屋で声を上げて泣いた。

彼のドイツ出張中の事故のニュース。
一人にしないで、と必死に願った。

無事がわかってこうして彼と暮らせるという日常を送っているのに、最近 "独り" になるような不安がとぎれとぎれ襲っていた。

彼の眠りを妨げる存在を私はまだ知らない。
"阿修羅" も追い出せない。

私が泣いてはいけないのに。
彼にこれまでたくさん支えられた分、私が彼を支えなくてはいけないのに。

遼太郎さん。

誰よりも愛していて、この世で絶対的な存在のあなた。
あなたのそばに私はいるのに。

あなたは私のそばからいなくなってしまったような気持ちになる。



#20へつづく

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