【連載】運命の扉 宿命の旋律 #2
Prelude - 前奏曲 -
「ただいま」
稜央が帰宅すると、既に妹の陽菜は保育園から戻っていた。
「お兄ちゃんおかえりなさい」
「稜央帰ったの、おかえり」
奥から母、桜子の声もした。夕食の支度に取り掛かっているのだろう。出汁の匂いが漂っている。
「お兄ちゃん一緒にゲームしてー」
陽菜が足元にまとわりつくのを稜央はそっと抑え退けた。
「兄ちゃんこれからやることあるからあっち行ってて。夜遊んでやるから」
おにぃちゃぁん、と駄々をこねる妹の目の前で部屋のドアを閉めた。
「お兄ちゃんが遊んでくれなーい!」
泣きながら部屋の前から遠ざかって行く。
稜央はため息を小さくついて、着替えもせずに部屋の片隅にある電子ピアノの前に座り、ヘッドフォンをセットした。
目を閉じ、白く長い指を鍵盤の上に置き、鼻から小さく息を吸い込むと、力強くそのイントロを叩いた。
『グリーグ ピアノ協奏曲イ短調Op.16第一楽章』
初めてこの曲を聴いた時、全身で共鳴したのを感じ、鮮烈な印象を持った曲である。
ベートーヴェンの「運命の扉を叩いたイントロ」が『交響曲第5番【運命】』なら、これはまさに自分の運命の扉を叩くイントロだ、と…。
* * *
稜央は古い団地の1LDKで、母の桜子と妹の陽菜と3人で暮らしている。
陽菜はまだ保育園児ということもあって母親と一緒に寝ているが、稜央には一人部屋が与えられていた。
稜央はこの春から高校生になった。
桜子が卒業生で、公立でありながら県内随一の進学校でもある。
高校へは歩いて通える距離である。
小学生の頃から成績はずば抜けて優秀だった。
その代わり体育…チームプレイを要するような球技は得意ではない。生き物も苦手で、生物もあまり好きではない。
痩せぎすで、少し青白ささえ感じる肌。
彫りが深く、鼻梁が高く通っていた。
悪い目つきを隠すように長めの前髪。真っ直ぐに伸びる眉と長いまつ毛。
横に増えない代わりに背はどんどん伸び、高校1年の今、176cmある。
そして大きな手、しなやかで長い指をしていた。
社交的ではなく、友達と遊ぶようなことはほとんどなかった。
学校から帰ればまず部屋に籠もり、晩ご飯の時間までは出て来ない。
食事の後は駄々をこねる陽菜の相手をしてやることもあるものの、大抵は再び部屋に籠もる。
部屋で何をするかというと母が買ってくれた電子ピアノをいじるのである。
小さな頃から音楽に興味を持った稜央だったが、若い母の手一つで育てている家庭に音楽を習わせる余裕は全くなかった。
桜子は大学を中退して一人で稜央を産み、育てて来た。
だから生活は厳しかった。
桜子がパートに出るため、稜央が0歳の頃から保育園に預けられたが、そこではかなり手を焼く子だった。
桜子が去るとしばらく号泣し、保育士の言うことも聞かない。
園内ではいつまで経っても友達を作ろうとしなかった。
そこにあったおもちゃのピアノをよくいじっていた。
『稜央くんは音楽が好きみたいですね』
保育士にそう言われ、桜子は家では音楽番組を見せるようにすると、稜央はじっと大人しく見ていた。
時折曲に合わせて身体を揺らしたり、表情に変化も見えたりして、確かに良い反応だと思った。
おもちゃのピアノを買い与えてみたが、あまりにも気に入って叩きまくるので近所迷惑を気にし、一度取り上げてしまったことがあったが、その時はこれまでにないほど感情を爆発させた。
『この子は本当に音楽が好きなのね…。ちゃんと習わせたら才能が開花するかもしれないけれど…』
ただ、ピアノを習わせてあげる余裕などなかった。
どうにかしてやりたいけれど、稜央ごめんね、と謝った。
その代わりに図書館から音楽のCDを借りて来ては、稜央に聴かせた。
意外にもクラシックに興味を持った。
保育園でもピアノをいじっていたからかどうかはわからないが、ピアノ曲は特に気に入ったようだった。
当時はバッハやパッヘルベルなどのバロック音楽を特に好んだ。
小学校に入ると、稜央は担任の先生に「学校のピアノを弾かせて欲しい」と申し出た。低学年時の担任は音楽教師だった。
放課後少し弾かせてみたところ、絶対音感がありそうだった。
これは伸びるかもしれない、と担任は直感した。
担任から桜子に「是非ピアノを習わせてはどうか」と持ちかけたが、相変わらず桜子は不本意ながらも断った。
状況を理解した担任は、時間の許す限り稜央に音楽室のピアノを触らせ、教えてげることにした。
稜央は普段は無口で愛想がなかったが、音楽の事になると感情が豊かになり、言葉による表現力も年齢以上のものが感じられた。
学年が変わっても稜央は元担任の元を訪れた。
いつかバッハの楽譜のコピーを貰った時は、その譜面の美しさに稜央は震えた。それを伝えると、元担任は本気で彼に指導をしてあげることにした。
稜央が小学校6年の時、桜子は実家の母や兄に相談して少し援助してもらい、彼に電子ピアノを買い与えた。
すると稜央は夢中になって、毎日・毎晩ピアノに向かった。
バッハの対位法を含む音楽理論の書籍も、この頃から読むようになった。
中学に上がっても部活動を拒否して小学校のピアノを弾くことを続けた。
引き続き元担任の音楽教師の指導を受け、舌を巻くほど上達していった。
独特の荒々しさはあるものの、表現力は眼を見張るものがあった。
「稜央、やっぱり音楽やっていきたいよね」
中学での進路指導の際、桜子は問いかけた。
音楽を専門に学ぶにはやはり私立となり、しかも自宅から通えるような距離にそんな学校はなかった。
稜央は首を横に振った。
「別に…音楽で飯食っていけるとは思わないし…そんな学校に入ったら俺みたいな奴は雑魚同然だし、他に潰しが利かなくなりそうだし、普通の学校に行くよ。公立の」
「稜央…なんか気を遣わせてごめんね」
「気なんか遣ってないよ」
稜央は無表情のままそう話す。
そして桜子の出身と同じ高校を受験すると聞き、桜子は驚いた。
学力的には全く問題が無いことはわかっていたが。
あの高校…。
桜子は遠い目をする。
息子が同じ高校に進むという運命に、桜子は震える肩を両腕で抑えた。
#3へつづく