【連載】運命の扉 宿命の旋律 #1
Overture - 序曲 -
「はー、いけないいけない。そのまま残ってるかな?」
川越萌花は廊下を走っていた。
午後一に授業で移動した際、音楽室に忘れ物をしてしまい、それを取りに行くために。
既に放課後で、中間テストも終わった校内は開放的なざわめきで満ちていた。
ただ梅雨入りして少し経って長雨が続いており、校庭で行う部活は活動ができず、廊下で時間を持て余す者も多かった。
北校舎の4階に音楽室はある。
通常の教室は南校舎に集中しているため、2階にある渡り廊下を萌花は走っていた。
雨脚が強くなったようで、渡り廊下の窓を叩くように降り注いでいる。まるで真夏の雨のように。
音楽室の扉は前後ともに閉まっていた。
中の灯りも点いておらず、無人と思われた。
授業の際は前方に座っていたため、前方の扉まで駆け寄る。
そっと押し開けたその瞬間、まるで落雷にあったかのようにビクッと驚いて腕を引っ込めた。
しかしそれは雷ではなく、ピアノのイントロだった。
グリーグの『ピアノ協奏曲イ短調Op.16第1楽章』の、あの特徴的なイントロである。
萌花はその "もうひとつの運命" とも言える印象的なイントロを知っていた。
「先生が弾いてるのかな」
誰もいないと思っていたから余計に驚きもした。
恐る恐る薄くドアを開けて中を覗く。
ドアのちょうど反対側に窓があり、演奏者はその窓を背にしているため逆光だった。
そのグランドピアノの、上がった屋根の向こうに見えた姿を確認しようとした瞬間。
青白い閃光が室内を照らした。
完全にピアノと演奏者はシルエットとなり、一枚の絵となり、萌花の目に鮮明に焼き付けられた。
少し遅れて雷鳴が轟く。
"え…、あれって…川嶋くん?"
それは同じクラスの川嶋稜央だった。
入学直後は出席番号順で席が近く存在はよく知っていたが、彼はいつも無口で無愛想。誰かと仲良く喋っているところは見たことがなかった。
当然萌花もまともに会話したことはない。
配布物などを渡す時なども彼は黙ってひったくるように取る。
"なんか…嫌な感じ“
見た目は線が細くて気難しそうだし、長めの前髪から除く目つきはいつも嫌悪むき出しに見え、余計に陰湿に感じる…、という最悪な印象だった。
しかし中間テストが終わったタイミングの席替えで離れ、それからは気に留めることもなかった。
表情はよく見えないが稜央が叩く鍵盤は、導入部分はまさにダイナミックだったが、第二主題に移ると冒頭の力強さとは打って変わって踊るように軽やかだった。
そういう曲だが、ただピアノの音だけでも正確に情緒を表現していると感じられた。
普段の彼からは想像出来ないほど、メリハリのある演奏だった。
普段の彼は死人も同然で、ピアノの前では息を吹き返す、そんなイメージが萌花の脳裏に浮かんだ。
しばらくドアの隙間で凍りついたように立ち尽くし彼のピアノを聴いていると、曲の中盤で稜央が顔を上げた時に萌花に気づいた。
彼はハッと顔を強張らせ、演奏を止めてしまった。
萌花は申し訳ない気持ちで中に入った。
「あっ…かっ、川嶋くん…。ごめん邪魔して。忘れ物、取りに来て…」
言い終わらないうちに彼は、走って後ろのドアから出て行ってしまった。
「川嶋くん!」
すぐに萌花も前のドアから廊下に出たけれど、既に彼の姿はなかった。
萌花はしばらくあの陰鬱な彼があんなに上手く、ダイナミックにピアノを弾いていたギャップに茫然と立ち尽くしていた。
グリーグ『ピアノ協奏曲イ短調Op.16第1楽章』
まさに萌花の運命の扉を叩くイントロだった。
#2へつづく
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