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空の測度、守破離、そして未知。

今日は3月3日、雛祭り。家を出た瞬間に全身に吸い込まれてゆく、ひんやりとした空気。冷たいけれど、どこかスッキリとしていて、春の訪れを予期する静かな冷たさです。

そんな静かな冷たさに浸っていると、不思議と自分の内側の体温が緩やかに感じられてくるのです。毎朝の空気との出会いはひそかな楽しみ。質感、温度、軽やかさ。

ふと、空を見上げると雲ひとつない爽やかな青空が広がっています。空の青も時間が経つにつれて淡い青から深みのある青へと変わってゆく。空の青のグラデーションには、流れる時間のグラデーションが含まれているんだなと思うと、なんだか嬉しくなって足取りが自然と軽やかに。

世界には季節の香りを届けてくれる音楽が様々あって、というよりも季節には人に「季節を表現したい」と思わせる生命力に満ちていて。自然と降りてきた曲を頭の中で再生すると、足取りは軽やかさを増してゆくのでした。

空の青のグラデーション。空気の静けさや温度のグラデーション。昨日のnoteで引用した高木正勝さん(映像作家・音楽家)の言葉が実感を伴って、じんわりと自分事化されていく。

今までいったい、どこを見ていたのだろう。これほどまで細やかに、季節が移り変わってゆくなんて。季節が4つだなんて大雑把もいいところで、二十四節気や七十二候などの分け方があるように、ほんとうに細かく毎日変化していってる。

高木正勝『こといづ』 にじみ

ふと「世界のグラデーションは何通りあるのだろう?」と考えてみると、「どこまで細かくできるのか?」あるいは「そもそも測れるのだろうか?数えることができるのだろうか?」という問いにまで行き着きます。

数学には、「測り測られること」を扱う「測度論」という分野があります。

たとえば「点(1つの実数aからなる集合 {a} ⊂ R)の長さはどれぐらいか?」という問いはどう考えればよいのでしょうか。あるいは、私たちが「長さを測ることができる」と考えている物事に対して無意識にイメージしている「つながり」つまり「連続している」とはどういうことなのでしょうか。

測度論を学んでいる中で出会った「どの点においても不連続」である以下の関数の例はとても新鮮でした。

例3.2.2(本書でもっとも大事な例)
有理数の上では1、無理数の上では0の値をとる次のような関数I(x): R → R.
I(x) = 1 (x ∈ Qのとき)、I(x) = 0 (それ以外)

原 啓介『測度の考え方 測り測られることの数学』

有理数とは「整数の比として表すことができる実数」であり、無理数は「有理数ではない実数」なので、有理数全体と無理数全体を重ね合わせた集合はつまり「実数全体」となります。

この関数は絵に描くことがそもそも困難で、関数の連続性を「ε-δ論法」で定義することで、初めて非連続性が明らかになるものです。「イメージが難しい何か」に対して、「論理がイメージの限界を超える瞬間もあるのだな」という新鮮さを感じたものです。

そしてそのような根本的な問いから考える測度論にふれてからというもの、心なしか世界の色彩がより新鮮に感じられる瞬間が増えたかもしれません。学ぶことは自分を枠の中に押し込めるのではなくて、むしろ自分をほどいてゆくことに他ならないと思うのです。

日本には「守破離」という言葉がありますが、何かを学ぶこと、語ることでその外側に意識が向いていく。語られたこと、学んだことを通して「語られていないこと」や「学んでいないこと」、つまり「未知」に出会うことができる。

一度きりの人生なので、「まだ出会っていない未知」と出会う、あるいは「じつは出会っているのに出会えていない未知」に出会い直しながら、自分をほどき続けてゆきたいな、と。そんなことを思った朝を思うままに綴ってみました。


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