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数学、音楽、無意識

今日は『偶然の散歩』(著:森田真生)から「数学の演奏会」を読んで感じたことを綴ります。

 音楽と数学の類似は、しばしば指摘されてきたことである。
「音楽とは、数えている自覚を持たない精神による、隠された算術の実践である」とは、万学にわたる偉大な業績を残した数学者ライプニッツの言葉だが、音の世界における調和の背後に、数理的な秩序を見たのは彼だけではない。
 楽器が発する音の連なり。あるいは、概念に基づく推論の連鎖。
 内容こそ違えど、音楽も数学も、時間発展する構造の展開が、人に感動を与える。ならば、数学を音楽のように楽しむ空間をつくるこおができるのではないか。

「音楽とは、数えている自覚を持たない精神による、隠れた算術の実践である」

ライプニッツが残した言葉に思わず「なるほど」と感心しました。

「数えている自覚を持たない」とは「楽譜を離れる」ことに通じるようにも思います。どの曲も練習を始めたばかりの頃は、どうしても楽譜に意識が向いてしまいます。曲のフレーズを覚えること、拍を数えること。

一方、練習を重ねて楽曲を身体で覚えると、楽譜以外のことに意識が向きます。他の奏者の息づかい、身体の動きに自分を重ね合わせる余白が生まれます。

「音楽も数学も時間発展する構造の展開が、人に感動を与える」と著者は述べています。フレーズが何度も何度も繰り返される。繰り返されるたびに、そのフレーズに向かう心は変化する。時間発展とは人の心のダムの水かさが上がってゆく、あるいは水かさが下がってゆくような感覚かもしれません。

 しかし、野外で楽しむ音楽もある。そこでは虫の鳴く声や海の音、風や予期せぬ雨さえ、音楽体験の一部になる。このとき、どこまでがノイズで、どこからが本来の音楽なのかを、はっきり分けることができない。
 寺や昔ながらの古民家では、庭に開かれた縁側があり、演奏中に風が吹き、西陽が差し込み、あるいは雨が降りはじめることもある。話が盛り上がってきたときに雷が鳴り、しばしの沈黙のあいだに鳥が鳴く。そういう場所にいると、人の心が本来、周囲と浸透し合っているのだということを実感する。

「虫の鳴く声や海の音、風や予期せぬ雨さえ、音楽の一部になる」

周囲の雑音を除去し、自分が聴きたい音のみを聴くノイズキャンセリングという技術を使ったイヤフォンが身近になっています。ノイズキャンセリングすると確かにイヤフォンからの音は明瞭に聴こえるのですが、一方でそれは周囲と自分の間に境界線を作るような感覚でもあります。

自分を取り囲む環境には、様々な音が鳴っています。どれか一つの音ということではなく、混ざり合った音が。ノイズというと余計なもの、邪魔なものというイメージを持ってしまいますが、本当にそうなのでしょうか。

音は空気の振動です。音があるところ、音を発する存在がある。音を排除するということは、その存在とのつながりを断つことでもある。

「人の心が本来、周囲と浸透し合っている」との著者の言葉が胸に残ります。

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