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歴史学エッセイ

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日本の権門とその構造

日本は古くからある複数の権門が相互に利害調整して営んできた連邦王国で、その原型は弥生時代に出来たものだと思われる。
権門は弥生時代に渡ってきた穀物生産集団がその原型で墳丘墓などを作っていた。権門の権勢を示し治水工事の意味合いから前方後円墳は作られたとみられ、奈良時代の薄葬令で禁止されるまで作られた。天皇の陵墓も簡素になっていったが現代でも天皇の陵墓は作られ続けている。

黒田俊雄の権門体制論という

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権門と日本

権門と日本

権門と日本社会
権門という用語はかなり基本的な用語なので、人間集団の権勢ある勢力のことを指し、その民族門地宗教職能は多岐に渡る。黒田俊雄が定義した事柄でさえきっと本人も意識してなかった広い概念に敷衍できると言っている人を管見の限りで見なかった。
黒田俊雄の権門体制論によると古文書に権門という言葉が多く出てきて、皇室(王家)、東大寺、春日大社、興福寺、比叡山、高野山、宇佐神宮、伊勢神宮、幕府、藩、武

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日本のこれから

日本は縄文時代くらいにその原型ができて農耕による富の発生で貧富の差が生まれて富を持つものは権門の原型となった。
文明の利器が新しく生まれて新しく生まれた権門もあり、日本社会は際限なく権門が生まれては消えて、現代に存在する多くの権門がある。
黒田俊雄が提唱した権門の3類型、寺社家、公家、武家の他に文明の利器の発明で新たに富を生み出した権門たちは第4類型の職能家と呼んだ方がいい類型のものである。鉄道会

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権門と日本社会

権門と日本社会

権門という用語はかなり基本的な用語なので、人間集団の権勢ある勢力のことを指し、その民族門地宗教職能は多岐に渡る。黒田俊雄が定義した事柄でさえきっと本人も意識してなかった広い概念に敷衍できると言っている人を管見の限りで見なかった。
黒田俊雄の権門体制論によると古文書に権門という言葉が多く出てきて、皇室(王家)、東大寺、春日大社、興福寺、比叡山、高野山、宇佐神宮、伊勢神宮、幕府、藩、武家、公家、などが

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スンダランド

スンダランド

以下の二つの引用から話を始める。

南部九州になぜ、最先端の文化が花開いていたのだろう。東南アジアの幻の大陸・スンダランドからやってきたのではないかとする説がある。
 スンダランドはマレー半島東岸からインドシナ半島にかけて、寒冷期に実在した沖積平野で、地球規模の温暖化によって海水面が上昇して住める土地が減少していった。すると住民の一部が五万~四万年前に北上し、東アジアや日本列島にたどり着いている。

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日本と人間

従来の通説をもとに日本には古い時代に4系統の海路で人間が長期間波状的に来たという説で私はいた。
だがその後、古い友人と話をしていて、縄文式土器は世界最古の土器であるということを言っていてその後、ネットでアズキの赤いアズキは縄文人が野生種を選別して赤いアズキを栽培し、五千年くらい前に大陸にもたらされたらしいということを言っている人がいて、従来の見解を検証し直すことにした。

小畑弘己のタネをまく縄文

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権門と海洋アジア

日本の地政学的位置は東アジアの先端で海洋アジアに接続していく位置にある。日本は海洋アジアである。
海洋アジアという用語を管見の限りではあるが最初に言及したのは西村眞悟である。西村眞悟は海洋アジアとは感性での表現であると本人と話をした時に述べていた。
海洋アジアと呼べる地域は以下の地域である。
樺太、千島列島、朝鮮半島南部、北海道、本州、佐渡、隠岐諸島、四国、対馬、壱岐、九州、種子島、屋久島、奄美群

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権門と関

権門という概念はかなり基本的な用語なので、人間集団の権勢ある勢力のことを指し、その民族門地宗教職能は多岐に渡る。黒田俊雄博士が定義した事柄でさえきっと本人も意識してない広い概念に敷衍できると言っている人を管見の限りで見なかったので私が言うことにした。
黒田俊雄博士の権門体制論によると古文書に権門という言葉が多く出てきて、皇室(王家)、東大寺、春日大社、興福寺、比叡山、高野山、宇佐神宮、伊勢神宮、幕

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日本王権論の仮説

日本王権論の仮説

日本の古代史を研究調査していて昨日共同研究者と話をしたのですが、我々がこの研究調査を始めてから富雄丸山古墳から鏡と剣の遺物が出土して仮説として確定したことがあります。神武天皇と長髓彦は実在した人物たちで神武東征は四世紀後半の出来事です。富雄丸山古墳は長髓彦の墓でしょう。
日本書紀の記述は四世紀後半の神武東征を時代を違う三つの時代の話にして記述しています。三つの時代の記述として同じ構造の話が書かれて

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固関の軍事的性格の衰退と疫病

固関の軍事的性格の衰退と疫病

要旨
 壬申の乱の後、不破関が置かれた。(天武二(六七三)年七月)
 元明太上天皇崩御時の固関(養老五(七二一)年十二月七日)を初見として、固関は奈良時代から平城天皇の変までは主として軍事的性格が強い。権力闘争の時は誰が古三関(越前伊勢美濃)を手中とするかで帰趨が決まった様である。
 古三関は桓武天皇の延暦八(七八九)年七月十四日勅にて廃止されるが、平城上皇の変の固関の頃から徐々に復活し、儀式書に

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海路と日本

海路と日本

参照:古代マレー人|阿蘇山 @makotohikawa|note(ノート)https://note.mu/makotohikawa/n/n39f23ec0260f

「道」という観念自体が陸路と海路を総称して「道」という。

古代マレーや南米には栽培される以前の原産の芋があった。
古代マレー人はポリネシアぐらいまで拡散した海洋民族である。
島崎藤村の歌に椰子の実という歌があるが、愛知県の伊良湖岬に

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古代マレー人

古代マレー人

古代マレー人は海洋民族である。
太平洋のインドネシアから近い順にメラネシア、ミクロネシア、ポリネシアという。
南太平洋にエロマンガ島という島があり、オーストラリアの内陸にエロマンガというところがある。
一億年前の海面上昇期にはエロマンガ海という内海がオーストラリアにはあったらしく、オーストラリアの北部のダーウィン湾がその名残らしい。
古代マレー人はマダガスカルからハワイぐらいまで拡散した人々の一族

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固関と関の史料での表出に関してそして3つの戦いに関すること

ざっと本郷和人氏の書籍を確認しましたが、本郷和人氏の書籍の方が詳細ですので、私が書いた固関考の有料販売は終了し無料公開とします。
壬申の乱と関ヶ原の戦いの発行は2018年。固関考をnoteに私が公開したのは2015年。固関考ではこの2つの戦いはほぼ同じ場所で起きたと書きましたが、この2018年の本郷和人氏の書籍ではもうひとつ青野ヶ原の戦いが中世に起きていて不破関あたりでは戦争は3つあったと書いてあ

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