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最上級表現としての「神」から、じゃあ、果たして本当に人間は神のようになれるのか、っていうことを考えて、なる方法は、ある、という話です。

最近、最上級表現としての神、っていうのを、よく目にする。

用例として

昨日のドラマ、神回だった
あなたが神か
なにその神
神ってる
神対応

などなど。。。

今日の聖書の言葉。

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
ルカによる福音書 6:36 新共同訳

神が最上級表現になるのは、やっぱり、神と人のあいだの距離感が薄い日本ならではだよなあ、と思う。。。

思ってた。。。いや。。。ちょっと、待てよ。。。

よくよく考えたら。。。

欧米人だって、最上級表現のゴッド、使うよね? 

オーマイゴッドみたく?

まあ、でも、それは、あちらの文化でブラスフェミーとかカースという、言っちゃイケナイ禁止表現、ということになってる。

ということは、日本でも欧米でも、実態としては、最上級表現としての神は多用されていることになるよね。

ただ。。。

欧米では、それを使うと、怒られるときには、怒られ。。。

日本だと、「えっ、それどんな神ですか!」って感嘆詞に使っても、ぜーったい怒られない。

この違いは、なんだろう?

やっぱり、二千年のキリスト教文化という畑のなかで、「神」と言ったら永遠・無限・全知・全能・遍在という属性を持ち、人間から隔絶した存在だから、軽々しく神って言うな、っていう共通理解があるからこその、怒られる、ってことかもしれない。

ただ、世俗化が進み、いまや、聖書よりも日本のアニメの影響を受けて大人になった、って自任するひとが増えている欧米では、今後は、最上級表現の日本化が進んで行くかもしれないねー。

ひとが神になる、って、日本では、わりあい簡単に思えるんだけど。。。

だって、親切にしてあげると、「あなたが神か」って言ってもらえるぐらいハードルが低いわけだから。

それに比べて欧米は。。。欧米か(笑)

欧米って言っても、ドラゴンボール放映前の欧米。。。遠藤周作が留学して鬱になるほど苦労した1950年代ぐらいの欧米。。。の文脈で言ったら、ひとが神になる、って、並大抵ではナイ。ほぼほぼ不可能だ。

その絶望的なほどの不可能さと言ったら。。。

お釈迦さまは6年間の座禅で悟りをひらいたけれど、じつはそんな簡単なものじゃなく、前世からずーっと座禅していて、じゃあ、どれぐらいやってたかと言うと、数千億年を数兆倍したぐらいの期間、ひたすら座禅していたという。。。

中学時代に自分はそれを読んで、絶望的な絶望を真に感じて絶望した。。。

ひとが神になる、ってことの絶望的な不可能さ、って、それに近い感覚があるんじゃないかなあ、と思う。

それを考えると、今日の聖書の言葉って、うーん。。。軽い。。。軽いよなあ。。。なに、この、さわやかなまでの軽さ。。。

あなたがたの父が憐れみ深いように
あなたがたも憐れみ深い者となりなさい

父なる神。。。永遠・無限・全能・全知・遍在の属性を持つ、人間から隔絶した、絶対他者である神。だから、神をひと目みただけで死ぬ、とすら言われる神。。。その「神」みたいに、アンタもなりな、ね、って言うんだからさ。。。

この不可能が可能になるには、どうしたらいいんだろうね?

仏教の場合には、この自分が数千億年の数兆倍の期間、ひたすら座禅して悟りを開くことは、絶望的に不可能なので、ありがたいことに、すでに悟りを開いているホトケサマが、迷える自分を救済してくれる、というストーリー、つまり、大乗仏教が爆誕するんだけれど。。。

なので、その、ありがたい名前を唱えるだけで救われる、っていう。それが称名とか念仏の信仰だ。

新約聖書の場合には、永遠・無限・全知・全能・遍在の「神」が、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に、ちいさな赤ん坊となって降り立った。それが、イエス。で、イエスが、迷える自分を救済してくれる、というストーリー。。。

じゃあ、どうやってイエスに救われるか、と言うと、イエスの名を呼ぶことによって、救われるんだ。

証拠聖句が、これ。ローマの信徒への手紙 10:13だ。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです

今にして思うのは。。。

中学時代の自分は、どうして、クリスチャンになったんだろう、ってこと。。。

たぶん。。。

数千億年の数兆倍の期間、ずーぅっと座禅して悟りをひらくよりも、「神」が赤ん坊に変身するほうが、簡単だろうなあ、と感じたからかもしれない。

だって、神だからね。。。


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