敵意に直面して頭がカッカするけれど、気持ちが落ち着いたら、考えてみたいこと。。。
敵意に直面させられたとき。。。
ただ一方的にやられっぱなし、というのは、ほんと、腹が立つ。
なので、どうしてやろうか、と、思う。
その、どうしてやろうか、には、いろいろ選択肢があるわけで。。。
● 反論し、抗議する
● その場では納めたと見せかけて、あとから手をまわして仕返しする
● やられたら、やりかえす。倍々返しだ!
● 弁護士に相談する
● SNSで拡散する
● 顔色ひとつ変えずに、スルーする
● 布団をかぶって、呪いの詩編を唱える
自分がやるのは、最後のやつかな。。。
今日の聖書の言葉。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
エフェソの信徒への手紙 6:12 新共同訳
敵意に直面した時、どう反応したらいいのか、いつも悩む。
たぶん、唯一の正しい答えというのは、ないのかもしれないねー。
まあ、祈って、考えて、自分で決めるしかないんだよね。
でも、その、考える、ということの上で、自分なりに注意を払っていることがある。
それが、今日の聖書の言葉に関連しているんだけど。。。
わたしたちの戦いは
血肉を相手にするものではなく
支配と権威、暗闇の世界の支配者
天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです
敵意に直面して、頭がカッカしている時には、どうしても、自分 vs 敵対者っていう二項図式の世界観でとらえてしまいがちだ。
で、二項図式の世界観に立って戦端を開いてしまうと、これはもう、徹底的に戦って、どっちかが滅びるまで行くしかないんだよね。
ところが、聖書は、三項図式の世界観をわれわれに提示しているんじゃないかと思うんだ。
それは、どういう世界観かと言うと、この世界には、霊的な諸権力(位・主権・支配・権威)が活動していて、人間の情動や行動の背後には、そうした諸権力による誘惑がある、っていうモノの見方なんだ。
三項図式の世界観を受け入れた上で、シミュレーションしてみよう。。。
自分には過失がないにもかかわらずAさんから攻撃を受けた、と仮定して。。。
この状況を二項図式で把握するなら、それはもう、自分 vs Aさん、という図式にしかならない。
しかし、聖書が言うような三項図式にあてはめるなら。。。
Aさんがなぜ敵対的な行動に走ったかというと、Aさんを誘惑してそのようにさせている諸権力の活動がある、と想定することになる。
もしそうであるのなら、自分がするべき反応は、なによりもまず「祈り」だ、ということになるよね。
だって、この状況の原因は、Aさんを誘惑してそうさせている諸権力にあるわけだから。
なので、Aさんが諸権力の誘惑を退けることができるように、という祈りをすることになる。
そして、これは、祈りしかない、ということでもある。
だって、諸権力の誘惑は「祈り」でしか抗することができないから。
さらに、逆に、Aさん視点にシフトしてみた場合。。。
もしかして、もしかしたら、諸権力の誘惑に負けて行動してるのは、Aさんではなく、自分かもしれない、という可能性もある。
まあ、めったにそんなことは無いとは思うけど。。。
でも、絶対ない、とは言い切れないんだよね。。。
なぜなら。。。自分は。。。人間に過ぎないから。
二項図式だと、対立を絶つ地点まで、つまり、どっちかが絶対的ポジションを獲得するまで、戦いは終わらない。
三項図式だと、対立は相対化される。誘惑に負けて間違った行動をしているのは、相手かもしれない。自分かもしれない。両方かもしれない。
なので、祈ろう。
祈りによって、相手が回心するか、自分が回心するか、両方が回心するかして、諸権力の誘惑をシャットダウンできれば、戦いは終わってしまうのだ。
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