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謎の研究室の機械でも消せないもの。

イエスには12人の弟子がいた。12使徒とも。

十二人を選んで使徒と名付けられた。 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブヨハネフィリポバルトロマイマタイトマスアルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモンヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
ルカによる福音書 6:13-16

だけど、それで全部ではなかった。イエスはほかに72人を福音宣教に遣わした、と新約聖書に記されているんだ。

主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
ルカによる福音書 10:1 新共同訳

この72人がどういう人たちかは、よくわかっていない。

一説には、福音書記者のマルコとルカ、イエスの弟ヤコブ、最高法院の議員のアリマタヤのヨセフ、エルサレム教会の執事として殉教したステファノ、パウロの手紙の宛名になってるテモテやテトス。。。こういったひとたちが含まれてたんじゃないか、って言われてる。

でも新約聖書は、72人の内容について沈黙してるので、これは天国に行ってみないと、わからない話だ。

じゃあ、イエスの弟子は12+72=89人だったかと言うと、それどころではない、500人以上いたんじゃないか、と思わせる記述が、新約聖書にある。

キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました
コリントの信徒への手紙一 15:3-6 新共同訳

残念なことにパウロは古代人らしく「兄弟たち」と、男性しかカウントしてないけれど、新約聖書にはイエスに従った女性たちが描かれている。自分の経験上どの教会も男女比1:2ぐらいの感覚なので、それをあてはめれば1000人ぐらい女性の弟子がいたと考えても不思議ではない。

すると、イエスの弟子は、十字架と復活の出来事のまえに1500人ぐらいいたかもしれないんだ。

1500人を導くイエス。。。12人しか弟子がいないのとはイメージが違ってくるよね。最高法院が、なぜイエスを恐れたのか、というところにかかわるかもしれない。

この1500人のなかで異彩を放つのがイスカリオテのユダだ。

イエスを裏切ったユダは、今も裏切り者の代名詞として使われるほど、よく知られている。

彼は、イエスを裏切ってしまった悲しみと後悔の念につぶされて、自ら命を絶ってしまった。

でも、裏切ったのは1人だけで、残りの1499人は立派にイエスと命運を共にしたのかと言うと、そんな単純な図式ではないんだ。

イエスがゲッセマネの園で最高法院の捕吏に逮捕されたとき、弟子たちは全員イエスを見捨てて逃げ去ってしまった。ペトロだけは心配になって、裁判の場所に戻ってはみたものの、身バレしそうになった途端「オレは弟子ではない!」と三度も激しく誓ってしまい、そのタイミングで鶏が鳴いた。。。

ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。
マタイによる福音書 26:75 新共同訳

十字架のもとで最後までイエスを見守ったのは母マリアを含めて5人。

イエスの十字架のそばには、その母の姉妹クロパの妻マリアマグダラのマリアとが立っていた。 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子(ヨハネ)とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
ヨハネによる福音書 19:25-27

そして、イエスの亡骸の引き取りを申し出たのは1人だった。

イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
ヨハネによる福音書 19:38 新共同訳

つまり1499人のうち見捨てなかったのは6人。

残り1493人は、ある意味、みんなイエスを裏切ったのだ。

これは裏切り率として非常に高い。もし自分が弟子として居合わせたら、どうしていただろう? もちろん、タイムマシンで連れて行かれる前に謎の研究室で機械にかけられて、このストーリーは十字架から復活に推移する、という記憶を完全に消去された上で、その場面に放り込まれるとして。。。自信がない。たぶん自分も1493人のひとりになるだろう。

裏切りの悲しみと後悔の念に押しつぶされた、ユダ。
裏切りの悲しみと後悔の念に押しつぶされた、ペトロ。

そういう意味ではユダとペトロは同じだけど、でも、二人を分ける要素があるとしたら、なんだろう?

今日の聖書の言葉。

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。
コリントの信徒への手紙二 7:10 新共同訳

ユダは、悲しみのあまり絶望し、そして、絶望し切ってしまった。

ペトロは、悲しみのあまり絶望し、絶望し切る寸前で、復活のイエスに出会って「ゆるし」を体験した。

その差は、わずか3日だ。。。3日後にイエスは復活したから。。。

この世界に「ゆるし」なんて存在しない。おまえがゆるされることは絶対ない。。。そう囁きかけてくる「世の悲しみ」が、ある。その悲しみが、絶望し切る地点まで、自分を連れて行こうとする。

これに対して、イエスの十字架と復活のストーリーは、この世界に確かに「ゆるし」があることを、今日も語り続けている。もし、謎の研究室の機械でこの記憶が自分の頭から消されてしまうことがあったとしても、イエスによる「ゆるし」は決して消えることがない。なぜなら、イエスは復活して今日も生きているからだ。

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