どういうふうに生きたらいいか、砂場では学び損ねたので、別のルートで4つのサイクルを学びました、っていう話です。
どういうふうに生きたらいいか、ってことを、いろいろ考えるけれど。。。
ロバート・フルガム (米国のユニテリアンの哲学者。1937- )みたく、人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ、って言えたら、楽だろうねー。
だって、もうね、すべて砂場でゲットした、って言うんだからさ。
残念ながら自分の場合、砂場で学ぶことはできなかった。。。
学んだこと、と言ったら、せいぜい。。。
熱中して作った砂の城も、お友だちの足に触れて、跡形もなく崩れ去る。。。空しい。。。空しい。。。ああ、なんという虚しさ。。。
。。。ぐらいだろうか。
今日の聖書の言葉。
人よ、何が善であり 主が何をお前に求めておられるかは お前に告げられている。 正義を行い、慈しみを愛し へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書 6:8 新共同訳
砂場で学べなかった自分は、だから、ティーンエイジャーになって、聖書に手を出すことになったんじゃないかと思う。
今日の聖書の言葉は、分厚い聖書のなかで、ズバリ、こう生きればいいじゃん! っていうのが出ているところかなー。
だってさ。。。「神」が、こう生きなさい、って要求している内容であるわけだから。
そこで言われている生き方は、四文節になっている。
正義を行う
慈しみを愛する
へりくだる
神と共に歩む
思うに、この4つすべてがバランス良く必要なんじゃないだろうか。
もし、バランスが崩れたら、けっこう悲惨なことになるかも、と危惧する。
たとえば、正義を行う、だけど。。。
ひたすら正義だけ確信して突き進んだ場合。。。
正義に反する敵対勢力は殲滅するしかない、って思い詰めて、かつ、そのタイミングで自分が大きな力を手にしてたら、まかりまちがえば大粛清みたいな事態を引き起こしてしまうもん。
だから、正義が暴走しないためには、その次が必要なんだよね。
それが、慈しみを愛する、ってこと。。。
慈しむ、とは、相手を大事に思うこと、だと思う。
相手は正義に反することをやっているけど、それでも、自分は相手を大事に思う、っていうような。。。
なんだろうね。。。罪を憎んで人を憎まず、っていうワードに近いものがあるかもしれない。
でもねー。。。
相手を大事に思って、いろいろやってあげていると、やれば、やるほど、そんな自分が、だんだんエラく思えてきちゃう。。。
自分、なんて、素敵なの。。。なんて、エライの。。。なんて、スゴイの。。。自分、ヒーローじゃん? っていう。。。
増上慢の地獄へひた走り。。。
アブナイ、アブナイ。。。
だから、その次が必要なんだ。
それが、へりくだる、っていうこと。
じゃあ、どれぐらい、へりくだればいいか、っていうと、使徒パウロぐらい、へりくだればいいんじゃないのかなー、って思う。
パウロは自身のことを「罪人のかしらです」と表明した。
わたしは、その罪人のかしらなのです *
罪人のかしら、って、盗賊団の首領ですか、って感じだけど(笑)
そうじゃあなく、自分は最悪のレベルの罪人です、っていう告白だ。
自分は他人に対して少しでも優位に立っている、と思ったら、その瞬間、相手を見下し、自分を王様か女王様のように思い始めてしまう。
だけど、パウロみたく、自分は最悪のレベルの罪人です、っていう自覚を持てたら、世界の構造のイチバン底、最も低い所に自分が立つわけだから、もうね、誰に対してもマウントを取る方法が無いんだよね。
それが、ほんとうのへりくだり、なんじゃないかと思う。
ところがねー。。。自分は世界の底で罪の重荷に呻いている、っていう自覚しかなかったら、とてもじゃないけど、生きていけない。。。死んじゃうよ。。。
だから、最後のこれが、必要なんだ。
それが、神と共に歩む、ってこと。
この場合の「神」とは、人類の罪をすべて担って十字架にかかり、死んで、墓に葬られ、三日目によみがえってくれた神であるイエス・キリストだ、と自分は思っている。
神と共に歩む、とは、イエスと共に、今日を生きる、ってこと。
具体的にどうやるか、って言うと、朝、イチバンに次の祈りを唱える。
主イエス・キリスト、神の子、救い主
罪人であるわたしを、あわれんでください!
そう祈った瞬間、イエスは「聖霊」を通して、自分のココロのなかに現臨してくれる。入って来てくれるんだ。
そうして、イエスは、内側からこの自分を担って、今日を一緒に生きてくれる。
なので、「罪人のかしら」である自分は、赦されて、赦されて、何度でも赦されて、イエスに押されて立ち上がって、人生をやりなおすことができるんだ。
今日もアサイチから人生のやりなおしをする。
そうして「正義」を考える。
正義を求めて生きる。。。だけど、これは、やりなおしている人生だから。。。だから、以前みたいに、正義の剣を振り回して暴れたりはしない。
静かに、静かに、4つのサイクルをたどりながら、生きて行くしかない。
正義を行う
慈しみを愛する
へりくだる
神と共に歩む
註)
* Cf. テモテ一 1:15 口語訳
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