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イエスの名を呼ぶ、ってことについての話です。

最近の教会の言説ではイエスは12月25日に生まれたのでは「ない」っていうことが、ほぼ定説となりつつあるんだけれど、イエス誕生12月25日原理主義者の自分としては言いたいことはある。

過去にこの note でそれに関するカレンダーの算定根拠に言及したこともある。

でも、まあ、それは枝葉末節の問題なので、今年はそれについては言わない。

だって大切なのはイエスを救い主として自分のココロの真ん中にお迎えするってことだもんね。

今日の聖書の言葉。

マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。
マタイによる福音書 1:21 新共同訳

永遠・普遍・無限・絶対・遍在・全能・全知である「神」は、ユダヤのベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけのワラの上に赤ん坊となって降り立ってくれた。それがイエスだ。

新約聖書は、イエスの名を呼ぶなら、だれでも、どんなひとでも、救われる、と約束している。

証拠聖句がこれ。ローマ 10:13 だ。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

。。。にしても、イエスについての呼び方は、各国の言語によって、けっこう違うよね。

英語だとジーザス。イタリア語だとジェズ。スペイン語だとヘスス。。。

そもそも、ヘブライ語でイエスは「イェホーシュア」だし。。。

ぜんぜん違うじゃん(汗)

ヘブライ語で書かれた旧約聖書に出て来るイェホーシュアを、日本語では「ヨシュア」と訳している。

ややこしいのは、このイェホーシュアつまりヨシュアは、ギリシャ語で書かれた新約聖書では「イエースース」と表記されているんだよね。

「主の名を呼ぶ者は救われる」のであれば、正式なギリシャ語にのっとって、イエースースよ! わたしを救ってください! と祈るべきなのか。。。

。。。ってことなんだけれど、ギリシャ語の場合、名詞の語尾が変化することによって主格(~は)、属格(~の)、対角(~を)、与格(~に)、奪格(~によって)、呼格(~よ!)が表示される仕組みになっている。

だから、イエースースとは主格、「イエスは」という意味なんだよね。

じゃあ、イエスよ! という呼びかけを示す呼格はどうなるか、っていうと、なんと「イエス」なんだ。

つまり、イエス=イエスよ! っていうこと。

日本語は、名詞に助詞(は、が、の、に、を、で)をくっつけるウラル・アルタイ語系の膠着語だから、名詞の語尾が格変化するっていうことが、ない。

なので、日本語の聖書はイエースースの語尾をばっさりカットして「イエス」としているわけなんだけど。。。

はからずも、というか、意図して、なのか、わからないけれど、日本語で「イエス!」と言うと、もうそれだけで「イエスよ!」という呼びかけになってしまっている、ということになるんだよね。。。

もちろん、ココロの底から深く信じて言う「イエス」と、なにも考えずただ口にしただけの「イエス」とでは、意味が違うとは思うんだけれど。。。

でも、まあ、「神」のサイドでは、どういうふうに扱っているのか。ただイエスと言っただけのイエスも「イエスよ!」として神はカウントするつもりなのかどうか。。。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです

それについては、新しいエルサレムの真珠門茶館(パーリーゲート・カフェ)に行ったときに、イエスに聞いてみよう。。。

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