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どっちやねん!って思っているのは、実は、自分だけではなかった、という話です。

聖書を読んでると、思わず「どっちやねん」って思ってしまう、いわゆる、どっちやねん系の聖句っていうのが、ある。

今日のなんかは、それだねー。。。

今日の聖書の言葉。

そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
マタイによる福音書 5:16 新共同訳

ここ単体だけ切り出して見た場合、特に「どっちやねん」という気持ちは起きないんだけれども。。。

でも、別の箇所と並置してみると、とたんにココロのなかから湧き上がって来るんだよね。。。どっちやねん、が。。。

たとえば、これ。。。

見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
マタイによる福音書 6:1 新共同訳

ん-、もう、どっちやねん(笑)

上記の二つの聖句は、別人の発言ではなく、おんなじイエスの言葉なんだよね。

前者は、クリスチャンとして立派な行いをするなら、それを見たひとたちが「神」をあがめるようになるから、隠れてちゃあダメ、どんどん前に出て行ってやりなさい、って、積極的に推奨している感じ。

後者は、祈ったり・断食したり・施しするのは基本、良い事だけれど、ひとに見てもらって、ほめてもらって、イイねボタンをゲットしたいからやる、っていうのはダメだよー、って、注意している感じだ。

これねー。。。おんなじイエスが言っているんだよね。。。

まあ、別にイエスはお釈迦さまみたいに対機説法をしたというわけでもないから、一見すると矛盾しているイエスの発言には、きっと深い意図があるんだろうなあ、って思うんだけど。。。

「どっちやねん!」っていう自分のココロの叫び。。。

でもね。。。

これは、もしかして、もしかしたら、「神」も同じように思ってるのかもしれない。。。

おまえ、それ、どっちやねん!って。

それはどういうことかというと。。。

自分がなにか良い事をするときに、もちろん、良い事をするのはいいんだけれど。。。

でも、自分はそれを、ほんとのほんとに相手を思ってやっているのか。それとも、自分のためにやっているのか。。。

あるいは、自分はそれを「神」のためにやっているのか。それとも、やっぱり、自分のためにやっているのか。。。

面白いことに、外見上はまったくおんなじ「良い行い」なんだけど、その根底にある動機は、ぜんぜん違うかもしれないんだよね。。。

だから、「神」は自分を見て、きっとこう思っているに違いないんだ。。。

おまえ、それ、どっちやねん!って。

いやー。。。自分、ぜんぜん、どっちやねん、なんて思ってる場合じゃないよね。。。

これはむしろ、「神」が自分を見て、どっちやねん、って思ってる、っていう話だよね。。。

どうするのよ、自分。。。どっちにすんのよ?

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