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いろいろな感情に振り回されているので、どんな感情があるのか数えてみました、っていう話です。

生きていると、さまざまなネガティブな感情にふりまわされて、そのあいまにポジティブな感情がぽつぽつ現れる、みたいな感じだけど。。。

自分の理想は、この逆だね。

たとえて言えば、ポジティブな感情の大海をゆったり進む船のように生きたい。

で、たまーにネガティブな感情という「島」を遠くに見かけるけど、絶対に近づかないで通り過ぎる、みたいな。。。

今日の聖書の言葉。

神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。
ヘブライ人への手紙 4:12 新共同訳

いったい、人間が抱えている感情って、何種類ぐらいあるんだろう?

喜怒哀楽って言ったら4種類だけど、7種類と言うひともいるし、いや、8種類にまとめられるって言うひともいるし、でも、Wikipediaを見たら、なんと 56種類もリストアップされてた!

そんなにあったのかよ。。。

どうりでいつも振り回されるわけだよね。。。

その「感情の一覧」を見てたら、え、なんじゃ、それ? っていうのが2つあった。

まず、これ。シャーデンフロイデ。

シャーデンフロイデ(ドイツ語: Schadenfreude)とは、自分が手を下すことなく他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情 (by Wikipedia) 

これって、簡単に言うと「他人の不幸を喜ぶ気持ち」なのだそうだ。。。

なのだそうだ、なんて、ちょっとつきはなして、えー、知りませんでしたー (棒読み) みたいに言ってしまったけど、あるよね、これ。。。自分のなかに。。。

もうひとつ、なんじゃ? と思ったのが、サウダージ。

サウダージ(ポルトガル語: saudade)とは、郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ単語。単なる郷愁 (ノスタルジー) でなく、温かい家庭や両親に守られ、無邪気に楽しい日々を過ごせた過去の自分への郷愁や、大人に成長した事でもう得られない懐かしい感情を意味する言葉と言われる。だが、それ以外にも、追い求めても叶わぬもの、いわゆる『憧れ』といったニュアンスも含んでおり、簡単に説明することはできない (by Wikipedia)

あー。。。わかる。。。

父と母に守られて、純真無垢に笑っていられた、幼少時代の雪のように白い自分。。。

なつかしい。。。あの頃に戻りたいと思ったって、戻れないことは、わかっているんだけど。。。ただ、ただ、なつかしい。。。

これって、中原中也の「汚れちまつた悲しみに」という詩をほうふつとさせる感情だね。これだ。

 汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さへ吹きすぎる

このように、こういう、自分でもきちんと認識も自覚もできてないさまざまな「感情」に動かされて、あっちにふらついたり、こっちにふらついたりしている人生であるわけだけど。。。

でも、そのすべてを「神」は、まるっとオミトオシなんだよね。今日の聖書の言葉の続きにこうあるとおり。

神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ人への手紙 4:13 新共同訳

いつか、自分が「神」の前に立たされた時、きっと神はこう言うだろう。

おまえがあのとき笑っていたのは、シャーデンフロイデに動かされていたからだろう?

おまえがあのとき涙していたのは、サウダージに動かされていたからだろう?

そうして、そういうもろもろの感情に動かされた自分が結果としてやらかしたマイナスについては、当然、自分で責めを負わなければならないよね。

だって、自分がやったことだから。。。

それにしたって、56種類もの感情に動かされてやってしまった、すごい量のマイナスの事柄を、どうやって償えばいいのだろう?

今日の聖書の言葉のさらに続きに、それに対する「福音」が語られている。これだ。

もうね、これが無かったら、生きてなんかいられない。

わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。
ヘブライ人への手紙 4:14-16 新共同訳

それはつまり、この人生には「憐み」が必要だ、っていうことだ。

自分は神から「憐み」を受けているので、ゆるされて、生かされて、生きることができる。

だから、自分も他者に対して同じように「憐み」を示して、相手をゆるして、受け入れて、一緒に生きていくことができるのだ。

それにしたって不思議なのは、あの Wikipediaの「感情の一覧」には、「憐み」がリストされていないんだよね。

なんでだろう? と思って検索したら、そもそも Wikipedia日本語版には「憐み」の項目そのものが無かった*。

どうして漏れているのかは、わからないけれど。。。

もしかしたら「憐み」は単なる感情ではなくって、人間の主体的な意志による決断が要請されている態度だから、ってことなのかもしれないねー。

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。
ルカによる福音書 6:36 新共同訳

註)
* 2022年2月8日 (火) 午前8時42分 (JST) 閲覧時点

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