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無人島に持って行くために、どんなコトバを選ぶ?ってことについて、最初に選んだのを撤回して、別のを選びました、という話です。

無人島に一冊だけ本を持って行けるとしたら、何を選ぶ?

っていうベタな質問があって。。。

答えとしてよく挙げられるのが「聖書」なんだけど。。。

じゃあ、次の質問。

無人島に聖書の一節だけ紙に写して持って行けるとしたら、どの節を選ぶ? 

究極のミニマリストだね。。。

どの節を選ぼう。。。

いまの自分なら、たぶん、今日の聖書の言葉を選ぶかなあ、と思う。

今日の聖書の言葉。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマの信徒への手紙 10:9 新共同訳

これを紙に書いて無人島に持って行きたい理由は。。。

短くて、わかりやすくて、すぐ「救い」を与えてくれるから。

しかし。。。

そもそも、無人島にひとりで置かれている状況で可能な「救い」って、どういうものなんだろう。。。

「救い」について自分は、「救われたと思ったら、それが救いだ。以上」っていう超簡単な考え方を基本している。

だから、「なんで救われたとわかるのか?」と突っ込まれても、「わかるから、わかるんだ」としか返答のしようがないんだけれど。。。

それじゃあ、身も蓋もないので、多少は掘り下げてみよう。

【救い】救済ともいう。一般に、超自然的な存在や力もしくは自己の精進・努力によって、生理的な病や心理的な苦痛から脱却すること。その結果、精神的な至福感や神秘的な法悦が訪れることがある。これを整理すると、救いの具体的な内容は、生理的・心理的・精神的・神秘的といったさまざまの位相に重層的にかかわっているということができる。また救いを求める者の態度としては、絶対者や超自然的な力に祈願し奉仕する型と、自己自身の力に頼る型の2種に分けることができる(by 平凡社世界大百科事典)

。。。というのが、救いについての一般的な理解ということだねー。

これを見ると、救いって「生理的・心理的・精神的・神秘的といったさまざまの位相に重層的にかかわっている」ってことになる。

ぜんぜん単純じゃないじゃん(汗)

この重層的な救いを、ひとことで表現するとしたら、「全人格的な救い」ってことになるだろうか。。。

全人格的な救い、っていうワードから思い出すのは、WHO(世界保健機関)の憲章による「健康の定義」だ。

こういうふうになっている。

健康とは、病気ではないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。
世界保健機関憲章前文 (日本WHO協会仮訳)

肉体的・精神的・社会的に満たされていること。。。

そうありたい。。。そうあってほしい。。。

自分もそうありたいと願うし、他者にもそうなってほしいと願う。

その願いを実現するために存在しているのが「社会」なんだと思う。

だから、肉体的・精神的・社会的に満たされるための大前提として「社会」が必須ということになるよね?

そこで、さっきの無人島問題にもどるとして。。。

無人島に聖書を持って行くことはできても、「社会」を持ち込むことはできない。。。

だってさ。。。無人島だもん。。。

無人島で生活したことがないから、想像で言っているんだけど。。。

もし無人島でそれなりに頑張って肉体的な健康は維持できても、たぶん、孤独感からメンタルが落ち込んでしまうと思う。

「社会」を持ち込むことができない無人島で、最終的にぶちあたる問題は、孤独感にどう対処するか、ってことになるんじゃないだろうか。

そうなってくると。。。

無人島のために選ぶ聖書の一節は、孤独感に効くかどうかで判定しなきゃいけないことになるよね。

ってことで、さっき選んだ一節は撤回する。

こっちに変更しよう。ヨハネによる福音書 14:23 の言葉だ。

わたしの父はその人を愛され
父とわたしとはその人のところに行き
一緒に住む

これは、イエスの言葉だ。

内容は、父なる神とイエスが、信じる者のところに来て、一緒に住んでくれる、という約束になっている。

ここの前後で、イエスは聖霊についても語っているので、自分と一緒に住んでくれるのは、父なる神・子なる神(イエス)・聖霊なる神ということになる。三位一体だね。

こうして。。。

無人島に社会を持って行けなくても、それでも人口は最低4人にはなる、ってことになる。

父・子・聖霊・そして・自分だ。

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