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退屈が永遠に続いたら? という恐怖を感じる場合、いや、恐怖を感じなくする秘訣がありますよ、という話です。

死の問題。これがコワくて自分はクリスチャンになった、ってところがあるんだけれど。。。

でも、いろんなひとに会うなかで、ときどき、永遠恐怖症みたいなひとに会うんだよねー。

高所恐怖症、閉所恐怖症、先端恐怖症、集合体恐怖症などなど、いろんな恐怖症があるけれど、そのひとつなのかもしれない。。。

考えてみれば、退屈な日常が、ずーっとこのまま永遠に続くとしたら、その途方もない退屈さに恐怖を感じる、ってのも、わからなくもないよね。

自分的には、そういう恐怖は感じないんだけれど、それは、無神経だからなのか、あるいは、よく考えていないからなのか。。。

あるいは、別のとらえ方をしている、ってことなのか。。。

今日の聖書の言葉。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
ローマの信徒への手紙 12:12 新共同訳

イエスの十字架と復活の出来事によって、自分は、いま・もう・すでに・永遠のいのちを生き始めている。。。

ってことを信じているわけなんだけど。。。

そういう意味では、「終わりなき日常を生きろ!」って言われるより、「はい、もう、終わりなき日常を生きてますけど、何か?」って感じではある。

でも、退屈な日常が永遠に引き延ばされる、ってふうには、あんまり感じないんだよねー。

むしろ、日常には、日常を日常たらしめる「緊張」の構造が背後に存在する、と思っている。

その構造を、ひとことで言うとしたら

すでに・しかし・いまだ

ってことになる。

すでに、の部分で言うと。。。

「すでに」イエスの十字架と復活によって、死の力は打ち破られ、罪の赦し・聖霊・永遠のいのちが人類にあたえられている。

いまだ、の部分で言うと。。。

復活の力は、すでに自分に働いているけれど、「いまだ」フルには顕現していない。顕現するには、死を経ないといけないからだ。

すると、どういう世界観になるかと言うと。。。

「すでに」もたらされている復活の力
「しかし」
「いまだ」フルには顕現していない復活の力

この、すでに・しかし・いまだ、の構造のなかで、今日も、自分は小さな死を重ねて行くことになる。

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい

一見、退屈そうな日常だけれど。。。

それでも、未来に望むことがある。イエスが復活したように自分も復活し、よみがえりのからだがあたえられる、という希望だ。

それは、手の届かない未来ではない。もう、いま、手に届いている。イエスの復活の力は、すでに自分に働いているからだ。

その復活の力がフルに顕現する日に向かって、復活の力に自分は動かされて、今日も小さな死を経験する。

表面的には、苦難に見える、いろんなことども。。。

飛蚊症、物忘れ、膝の痛み、腰痛といった身体的なことから、人間関係にまつわるあれこれまで。。。

それらの苦難を、祈りのなかで、神のもとに持って行く。

祈る。。。

そして、それらを「自分の十字架」として受け取りなおす。

受け取りなおした瞬間、小さな死を経て、自分はもう、小さな復活を経験する。

それは、現在に流れ込んでくる永遠。あたらしくなる自分と世界だ。

そういうことがあるから、まあまあ、退屈ではないと思うんだよね。。。*

註)
*  じゃあ、復活の力がフルに顕現して、あたらしい、よみがえりのからだをゲットしたら、そのとき、それでも、退屈にはならないの? っていうギモンは、当然あるだろうけど。。。でも、自分は、こう考える。よみがえりのからだと共に、この脳はフルバージョンアップされるわけだから、もう、恐怖を感じる、っていう動作バグは、解決されちゃうんじゃないの、ってこと。つまり、完全復活と同時に恐怖症も消え去る、ってことだ。

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