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愛・恵み・赦し、というフレーズは好きだけど、そればっかりでいいの? っていう話です。

利己的な遺伝子と利他的な遺伝子。二つが自分のなかでバトルしている平常運転の今日このごろ。いかがおすごしでしょうか?

「裁いて罪に定める」というフレーズと、「愛・恵み・赦し」というフレーズがあったら、どっちが好き? と問われたら、間違いなく後者を選んでしまう自分。

本能的に、何も考えずに、瞬間的に後者を選ぶ。後者一択でしょ、絶対。

どうして自分はそうしてしまうんだろう、ということを考える。。。

今日の聖書の言葉。

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
コリントの信徒への手紙二 1:3 新共同訳

ちょっと思考のシミュレーションをしてみよう。

利己的な遺伝子だけを持ったコミュニティーがあった、と仮定して。このひとたちは自分が生き残るために他者を犠牲にするので、お互いがお互いを滅ぼし合って、早晩、自滅してしまうことになる。

一方、利他的な遺伝子だけを持ったコミュニティーがあった、と仮定して。このひとたちは自分を犠牲にして他者を生き残らせるので、お互いがお互いを助け合って、いつまでも生き残ることができる。

後者がわたしたちのご先祖さまであること・わたしたちはその子孫であることを願うばかりだ。。。

で、もしそうだとするなら、なんで自分は「愛・恵み・赦し」というフレーズが好きかは、説明がつくよね。

ただ、ね。そう仮定しても、まだ課題が残る。。。

どういう課題かと言うと。。。

利他的なコミュニティーであっても、コミュニティーの存続を危機にさらすような「苦難」を回避することは不可能だということだ。

たとえば、もし、利他的なコミュニティーのなかに突発的に利己的な人間が出現したら、どう対処するのか?

いま人類はウイルスが短期間で次々に変異することで苦労させられているけれど、リボ核酸で記述された情報の羅列という観点で見たら、ウイルスも人間も同じように突然変異の可能性に開かれているわけだよね。。。

なので、利他的なコミュニティーのなかに突然すごい利己的な人間が出現して、コミュニティーをひっちゃかめっちゃかにして、その存続を危機にさらすなんてことは、容易に想像できる。

で、そうなったら、危機を引き起こした当人に対処するしかない。だって、そうしないと、コミュニティーが生き残れないもん。。。

すると、じゃあ、どう対処するの? っていう課題に直面することになる。

さっきも言ったように、利他的なコミュニティーのプロトコールは「自分を犠牲にして他者を生き残らせる」であるわけなんだけど。。。

それに照らせば、危機を引き起こした当人だって当然、他者の範疇に入るから、当人を滅ぼして解決する、というわけには行かないんだよね。それだったら利他的なプロトコールに矛盾しちゃうもん。

そこで、利他的なコミュニティーは当人を滅ぼさずに、むしろ、当人が悔い改めて生き方を利己的から利他的に変えることを期待する、っていう方向を選択することになるんだろうなー、と思う。

これって、けっこうギリギリの選択だよね。だって、そう期待しても、当人が期待通りに変わるかなんて、なーんにも保証が無いわけじゃん?

保証がなくても、それでも信じて、受け入れて、変われることを期待して、待ち続けるなんて、できるんだろうか?

それはイコール、見ないで信じる・相手を赦す・救いを祈る・希望に生きるってことになるんだろうけど。。。

ここから先は自分の想像だけど。。。

たぶん、人類はいまも利他的なコミュニティーの存続のために葛藤している最中なんだと思う。そして、いつもギリギリのところに立たされながら、それでも、見ないで信じる・相手を赦す・救いを祈る・希望に生きる、を繰り返し繰り返し選び続けようとしているんじゃないだろうか。。。

今日の聖書の言葉の続きには、こうある。

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 

キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。 

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。

コリントの信徒への手紙二 1:4-6 新共同訳

葛藤を生きる。それは、苦しみに耐える、っていうことだ。。。

葛藤を今日も生きる人類は、その手に「聖書」を持っていて、そこにはイエスの十字架と復活が描かれている。

十字架はコミュニティーから他者を排除するための装置だよね。

その装置を使って人類は「愛・恵み・赦し」を体現するイエスを徹底的に排除しようとした。

ところがイエスはさくっと復活して自分の不滅を宣言したんだ!

それはつまり、イエスが体現する「愛・恵み・赦し」という価値観が永遠に不滅であることの宣言でもあると思うんだ。

さっき、なんの保証がなくても、それでも信じて、受け入れて、変われることを期待して、待ち続けるなんて、できるか? って書いたわけだけど。。。

もし、苦難に満ちた世界に「慰め」があるとするなら、イエスの復活こそ慰めなんじゃないのかなー、って思う。

信じていいんだよ、受け入れていいんだよ、ひとは変われるよ、忍耐して待てばいいんだよ、愛・恵み・赦しに生きていいんだよ、って、復活のイエスが今日も自分に語りかけているように感じる。。。

だから、自分のなかの利他的な遺伝子と利己的な遺伝子に向かって、こう叫ぼう。

キリストは、よみがえられた!
ほんとうに、よみがえられた!

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