ほうら、魚が焼けたよ、食べようよ、って言ってくれる世界。。。
ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』に、ひとりの求道者が川辺に座り、ながれゆく水のさまを、みつめつづける場面が出て来る。
ただ、ただ、ひたすら、川面をみつめる。何日も、何か月も、何年も。。。
お釈迦さまをモデルにした人物・シッダールタが、悟りをひらくまでを描いた小説なんだけど、自分的には、この川面をみつめるシーンが、いちばん印象に残っている。
今日の聖書の言葉。
世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
ヨハネの手紙一 2:15 新共同訳
川面が、朝の光にきらきら輝いたり、夕暮の光でオレンジ色に染まったり、いろんな美しさがあるわけだけど。。。
でも、川は、いつも、たえず、つねに、流れつづけているわけだから、そこには、永遠に固定した実体は、無いんだよね。
だって、川面の一瞬を切り取った1秒前と1秒後では、水の分子がぜーんぶ入れ替わっているわけだからさ。。。
万物はつねに流転しているから、切り取った世界の一瞬に自分の心を執着させて一喜一憂するのはナンセンスでしょ? というのがお釈迦さまが悟った内容だけど、新約聖書にでてくる「世」(Cosmos) っていう言葉にも、過ぎゆくもの、という意味が込められている。
今日の聖書の言葉の続きで、こう言われてる *¹。
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます
世の栄光というのは、人間がつくってる栄光なわけだけど、それが美しいのは一時だけで、すぐ花みたいに枯れちゃうよねー、とも、聖書は言う *²。
人は皆、草のようで
その華やかさはすべて、草の花のようだ
草は枯れ、 花は散る
ところが、お釈迦さまとイエスとでは、大きく違うところもある。
聖書の場合、こう言うんだ *³。
草は枯れ、花は散る
しかし、主の言葉は永遠に変わることがない
あらゆるものは流転している・にもかわらず・この宇宙のなかで、ただひとつ、永遠に変わらないものがある。神の言葉が、それだ、と言うのだ。
イエス自身も、こう言ってる *⁴。
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない
お釈迦さまは生まれたとき、赤ちゃんなのに「天上天下唯我独尊」と言ったけど、イエスはその上を行くよねー。だって、天地が滅びても、イエスの言葉は滅びない、って宣言しちゃってるんだから。
イエスの言葉が滅びないのは、論理的に考えて、イエス自身が滅びないから、ということになるはずなんだけど、それについても、聖書はこう言う *⁵。
イエス・キリストは
きのうも今日も
また永遠に変わることのない方です
なので、東洋のスピリチュアリティは心をからっぽにして、なんにもフォーカスしない状態を理想とするのに対して、クリスチャンの場合は、永遠に変わらないイエスにひたすらフォーカスし、心がイエスで満たされることを願うんだ。
その感じというのは、なんだろうかねえ。。。
川辺にすわって、来る日も、来る日も、やっぱり川面をながめているんだけど、その自分のかたわらにはイエスが座っていて、釣り糸を垂れてる。で、ときどき魚が釣れると、炭火を起こして焼いてくれて、イエスが「ほら、できたよ、一緒に食べようよ!」って言ってくれるような、そんな、ほっこりした感じなんだ *⁶。
註)
*1. Cf. ヨハネ一 2:17
*2. Cf. ペトロ一 1:24
*3. Cf. ペトロ一 1:25
*4. Cf. マタイ 24:35
*5. Cf. ヘブライ 13:8
*6. Cf. ヨハネ 21:9
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